デビュー作には作家のすべてがあると言うけれど、「蛍川・泥の河」(宮本輝、新潮文庫)を読んで確かにその通りだと思いました。
「泥の河」という短い小説は、昭和30年の大阪の場末を舞台に、一人の男のあっけなくも悲惨な死から物語が始まります。のっけから、既に老成した作家のような落ち着いた筆致。今読めば、後の宮本作品に共通する通奏低音が、はっきり聴こえてきます。哀しくて、どこか温かい響き。
「泥の河」は、昭和52(1977)年に太宰治賞を受けた宮本さんのデビュー作です。前年に「限りなく透明に近いブルー」で群像新人賞を獲った村上龍さんがデビューしていました。昭和53年には村上春樹さんが「風の歌を聴け」で同じく群像新人賞。きらびやかな才能が相次いで世に出た時代です。
当時大学生だったわたしは、リアルタイムで「泥の河」も読んでいるのですが、<ダブル・村上>に比べてなんとも印象が地味でした。自分の若さを言い訳にするなら、読者を驚かせる方に目が向いて、静かに沁みる作品を読み捨てていたのでした。
ただ、文芸誌に載った太宰賞の受賞の言葉が印象に残りました。「泥の河」について<古風>という評があったのですが、宮本さんは「どこが古風なのだ。わたしは新しい」という趣旨の反論を述べていたのです。
賞をもらった新人の喜びの言葉として、なんとも異例です。若い作家の自負が、ひしひしと伝わってくるようでした。
そして作者が自負するだけのことはある、いい小説なのです。
河を中心に営まれる貧しい人々の情景が、8歳の少年の眼を通して描かれます。食べていくために稼ぐこと、性、子供たちの友情が、大阪弁の響きとともに、泥の河に揺られて未来へと流れていきます。
宮本さんは第二作の「螢川」で、「泥の河」の翌年に芥川賞を受賞しました。昭和37年の富山を舞台にし、雪国の自然に重ねて14歳の少年が見た世界が描かれます。
「雪」「桜」「蛍」の短い3つの章で構成され、「泥の河」と同じように地を這うような人びとの暮らしが描き出されています。ただ、「泥の河」が地上の話に徹していたのに対して、「螢川」は哀しさの向こうにある天上への光が、蛍の乱舞に託して現れます。
宮本さんは子供のころ、一時期を富山で暮らしたので、雪国の、季節が移りゆく空気感のとらえ方は実に的確。地名や橋の名前など固有名詞の多くは実在します。この小説を片手に、街中の文学散歩ができるほど。
他にも富山を舞台にした作品があるので、熱心なファン(それを「テルニスト」と言うそうですw)であれば、旅のついでに、小説に出てくる場所を巡ってみるのも一興かもしれません。
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さて、読書ブロガーの本猿さんが1カ月ほど前、「蛍川・泥の河」についてのレビューを書かれていました。刺激されてわたしも再読したくなったのですが、あるはずの本が探し出せない!。作家別にまとめて整理しているのに、宮本さんの場所になく、どこかに紛れたと思われます。
あきらめて、数日後に書店で文庫本を買いました。ところが今度は積読本の1冊となって、読まれることなく机の隅に置いたまま。やれやれ、です。
そして数日前、宮本さんとは何ら関係ないある記事を投稿したときのこと。ブログの友人・ともこさんが、なぜかコメントで宮本輝さんに言及してくれました。「これは、早く読めという天の暗示か」と勝手に思い、久しぶりに川シリーズと再会できたのです。お二人に感謝。
ところで「泥の河」は映画化され、当時複数の賞を獲得しました。あえてモノクロ撮影し、小説の雰囲気をいい感じで映像化しています。
わたしが宮本作品に注目するようになったのは、30代前半のころに「優駿」を読んでからでした。「優駿」は昨年、このブログに書くために再読。ほかにも、昔読んだ本をブログに書きたいから再読することがあって、これがしばしば思いがけない発見をもたらしてくれます。
ブログを始めてよかったと思うことの一つです。