史上最大規模の世界帝国・モンゴル帝国の基礎を築いた、チンギス・ハンの生涯を描く北方謙三さんのライフワークが、最初の節目の第5巻まできました。といっても「絶影(ぜつえい) チンギス紀五」(集英社)で、将来のチンギス・ハンであるテムジンは、まだモンゴル遊牧民の部族統一さえ道筋が見えていません。この調子だと、北方さんが存命中に作品は完結するのでしょうか。いや、北方さんには長生きしてもらい、ぜひ最後の「完」の一文字を愛用の万年筆で書いてもらわないと困りますが。
「この1冊だけでも十分に楽しめます」と、ふつうは言いたいところですが、こればっかりは、う〜ん。少なくとも1巻目から順番に。可能なら、チンギス紀の前に、北方「大水滸伝」51巻をまず読んでから...と書くと、まるで未読の人に対して「読むな」と突き放すみたいで、困ったなあ。
5巻目の読ませどころは、50騎の傭兵軍団を率いる謎の男・玄翁が、楊令の遺児・胡土児(コトジ)だと明らかにされるところです。そして死んでいく玄翁とテムジンの血のつながり。
「遠くない日、おまえに、ひと振りの剣が届けられる。拒むな。それを、受け取れ。わが息子よ」
4巻目までにそのあたり、ほのめかしてはありましたが、いよいよ「チンギス紀」と大水滸伝がつながりました。
それにしてもというか、大胆というか。水滸伝はもとより中国のフィクション、そして「チンギス紀」は史実をベースにしています。関係のない巨大な物語を、一人の男の血筋で繋げてしまったわけです。小説家としての桁外れなダイナミズム、としか言いようがありません。
チンギス紀がスタートしたとき、私は「これはさすがの水滸伝読者も、読みづらいか」と思いました。なにしろモンゴルの人名や部族名が、なかなか頭に入らないので困りました。固有名詞にひっかかると、北方さんの特徴である短いセンテンス、そのリズムに乗れないのです。しかし、巨大な歴史壁画のピースが1つ1つ埋まっていく面白さにやがて捕らわれます。
以前、北方さんの「大水滸伝」51巻を、短い文章でやっつけてしまいました。「チンギス紀」について次に書くとしたら、何年か先に完結したときになりそうです。こうした巨大な小説を紹介するのは、難しいなあ。