Eが死体が見つかったのは、2月の寒い朝だったそうです。夜、大学の後輩からかかってきた電話が、前後の様子を伝えてくれました。後輩は淡々と話しました。学生時代、彼はEの文学観と才能に傾倒していました。だからこそ感情を抑えようと、静かな口ぶりになったのだと思います。
Eは未明まで、大学時代のサークル仲間と飲んでいました。皇居近くで、彼らは別れました。皇居のお濠に浮いているEを発見したのは、たまたま通りかかった人でした。「酔って落ちたのか、それともEさんは心臓に持病を持っていたからか...」と、後輩は続けました。
ひと言で表せば、Eは昔の文学青年でした。大学の講義に出るより、サークルの部室に入り浸り、詩を書き、酒を飲み、圧倒的な読書量で一目置かれていました。同い年の私とEは、早稲田のフランス文学研究会という、一風変わったサークルで出会いました。
あの時代、高田馬場にあるDUO(デュオ)で、私たち仲間はしょっちゅう飲み、当時流行っていた記号論や構造主義、はたまたランボーからアナイス・ニンのポルノ小説まで、飽きもせず議論し、時には攻撃し合ったものです。なにしろ昔の大学生のことですから、密かに小説か詩か批評で仕事をしたいと思っている、おにーちゃんとねーちゃんの集まりでした。
秋田からきた1年の女子学生が、布団を持って先輩の5年生の学生アパートに押しかけたという武勇伝がありました。真偽のほどはついに不明でしたが、確かに2人はサークル内公認の仲として、DOUで酔っ払っていました。
ふりかえってみれば、言葉というものに対してあれほど自分を研ぎ澄まし、しかも、もろかった時代はなかったと思います。だれもがプライドと、同じだけの臆病さを持ち、救いようがなく未熟でした。
ただ私とEは、本当に自分を賭けて言葉をぶつけ合うことはありませんでした。私はEのような詩は書けない。Eは、私のような散文は書けない。お互いに意識していたから、攻撃し合えばどちらも致命傷を負いかねなかったのです。どこかで優等生だった私は大学を4年で終え、Eは6年いて卒業したのか、中退したのか。神田の小さな出版社に入ったことは知っていました。
大学を出た十数年後、私がたまたま仕事で東京に行った時、神田の路上で偶然、Eと出会いました。すれ違って数メートル歩いてから、二人同時に振り返ったのです。やはりそれはEでした。互いに口数少なく、近況を語り合った記憶があります。そのとき「今も詩を書いているのか」と聞いてみたくて、ついにきけませんでした。
高田馬場のDUOは、栄通りの一番奥の左、神田川にかかる橋の手前。私が大学を出た後も20年くらいは健在でしたが、今はありません。私にとって馬場が過去の街になったのは、社会に出たときではなく、DUOの入り口扉に「閉店」の貼り紙を見たときからでした。