ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

懐かしい風 アール・ヌーヴォーの華 〜アルフォンス・ミュシャ展図録

 ミュシャのポスターや絵画の魅力は、最初に出会って以来、わたしにとって不思議な「何か」であり続けています。その曲線と色彩、女性たちの佇まい。作品の前に立つと、パリでさまざまな文化が花開いたベル・エポック、叶うことなら行ってみたかったその時代の空気を、呼吸している気がするのです。

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 演劇の告知であったり、たばこ会社のPRであったり、多くは1世紀も前の商業ポスター。デザインのベースは当時でも懐古的な意匠だったと想像しますが、同時に極めて斬新(=ヌーヴォー)。一見、矛盾する言葉の組み合わせである「懐古的な斬新」があって、いまなお古びていないのを感じます。わたしは美術史は詳しくありませんが、デザインをアートとして認めさせた最初の人ではないのでしょうか。

 たまたま近くの美術館でミュシャ展があり、わたしは開幕日の開幕直後に行ってきました。ミュシャの実物を見るのは30年ぶり。ポスターを何枚か、そして図録を買いました。そもそもオリジナルがポスターなので、油彩作品のポスターを買うよりよほど実物に近いのがラッキーです。図録のほうはアマゾンでも国立新美術館での展覧会のものが買えますし、画集もたくさん出ています。

 ファンには知られた話ですが、ミュシャは地味な挿絵画家から、一夜にして有名になった作家です。1894年の年末、パリの大女優サラ・ベルナールから印刷会社にポスターの依頼が入りました。翌年1月1日に街頭に張り出す、大急ぎの仕事です。年末年始休暇でめぼしいデザイナーはみんな不在でした。たまたまは依頼電話がきたとき、印刷会社にいたのがミュシャでした。

 ミュシャが急きょ制作したポスター「ジスモンダ」は、年明けの朝、パリに張り出され、たちまちセンセーションを巻き起こします。こうしてアール・ヌーヴォーの華といわれるアーティストは誕生しました。このエピソードは、記述によって細部に違いがありますが、だいたいはこんなところのようです。

 さて、展覧会場で、ミュシャが有名になる前の作品を見ると、モノクロの精細な線で描かれた本の挿絵からは、物語性が色濃く漂ってきます。有名になったのは運の巡り合わせかもしれませんが、運をものにできる土台がしっかりあったのだと納得できます。

 わたしにとって、作品に衝撃はありません。しかし作品から漂ってくるどこか懐かしい風を、ときどき身体全体で浴びたいと思い続けて、結構な歳月が流れました。