この物語を初めて読んだのは、小学校の何年生だったろう。やがてあらすじさえ忘れてしまったけれど、あのときページをめくりながら、異世界に飛ばされて大いなる試練に直面した「わくわく」と「どきどき」は、消えることなく心に刻まれました。地面が割れて落ちていくような、わたし自身が異世界に連れ去られた読書原体験の一つ。
子どもの心は小さくまとまっていて、単純で分かりやすい調和に充たされています。見聞きする外の世界も限られ、遠くに違う街や国があることは知っていても現実感がありません。むしろ上手に語られたフェンタジーにリアルを感じます。
例えば、大きな衣装箪笥に隠れているうち、吊るされた服をかき分けて奥へ進んだら違う世界に出たとしても、あり得そうに思える。というか、そうあってほしいという願望があります。本が好きな子どもはたいてい、そんな具合ではないでしょうか。
大人になって、難しい言葉や世渡り、宇宙の仕組みも学んだけれど、結局のところわたしが本に求めるのは、あの「わくわく」と「どきどき」なのです。
翻訳が新しくなった「ナルニア国物語」(C・S・ルイス、土屋京子訳、光文社文庫)を読みました。全7巻で7つの物語。膨大なストーリーという記憶はあったけれど「えー、こんなに多彩な大長編だったっけ」といまさらながら驚きました。

ナルニアという国の創生から終焉までの、何千年にもわたる壮大な物語です。ナルニアが危機に瀕するたびに、ロンドンに暮らす普通の男の子と女の子が、あるきっかけで突然ナルニアにスリップしてしまう。
子どもたちは、人のように話す個性豊かな動物たちや神話世界の半身獣と力を合わせ、国を救うために邪悪な力に立ち向かいます。各巻、遠い海の果てに向かう航海あり、王子を救うために地底の国への冒険あり。こう書くと他愛のない話になってしまいますが、ついつい手が止まらなくなります。
しばしば出てくるさまざまな食べ物の描写、イギリスらしいウイットに富んだ語り口。小学生のわたしを虜にした「物語の力」は、いま読んでも色褪せていませんでした。
原題名は「The Chronicles of Narnia」なので、正確に訳せば「ナルニア国年代記」でしょうか。著者のC・S・ルイスは、名門ケンブリッジ大の教授であるとともに熱心なキリスト教徒でした。
子どものころは気づくはずもなかったのですが、いま読めばキリスト教が色濃く投影された物語であると分かります。ナルニア国創生のとき、絶対的な力を持つ金色のライオン・アスランは、愚かな生き物を救うために無抵抗で魔女に囚われ、殺されます。その後アスランは復活して魔女を倒し、ナルニアを建国しました。
無抵抗で囚われ、十字架に架けられたキリストの死と復活を重ねるのは難しくありません。最終巻のナルニアの終焉は、黙示録の世界のようです。
全巻を通じてキーになる、偉大なアスラン。物語のさまざまな部分を、教義と結びつける研究はたくさんあるようですが、無信仰のわたしは逆の面白さを感じます。キリスト教の視点から物語を解析するのではなく、物語の視点から逆にキリスト教を照らしてみる。
子供であれ大人であれ、宗教に関係なく「ナルニア国物語」の世界にしばしばのめり込みます。そこに普遍的な「物語の力」があるからであり、この作品の力のエキス、またはルーツは福音書や黙示録だということになります。
だとすれば「物語の力」こそ、ヨーロッパにキリスト教を根付かせたのではないでしょうか。そう考えると、キリストの死以降2000年に及ぶ、「物語の力」の壮大なクロニクル(年代記)が見えてくる気がしたのです。
もしかすると信徒の方にとっては噴飯ものの戯言かもしれません。先に謝っておきます。すいません。
脱線しました。さて、ナルニアの終焉はまさに旧約聖書の「ノアの方舟」のようです。救われるものと滅びるもの、星々が次々と地に落ちてくる描写の美しさといったら。最後に示される新しい世界観は、プラトンのイデア論までキリスト教に融合されていて「ルイス教授、書いていて楽しかっただろうなあ」と思ってしまいました。
終わりに改めて、この物語を楽しむためにどんな予備知識も宗教も、子どもである必要もありません。純粋に「物語の力」を持った作品です。
amazon 光文社、新潮社で文庫になっています。

