祖母だったかほかのだれかだったか、確かな記憶はないけれど、子どものころこう言われました。
「隠れて悪さをしても、ののさまは見ていらっしゃる」
仏様のことを、わたしが暮らす地方では子ども言葉で「ののさま」と呼びます。「見ている人がいないからといって、悪いことをしてはいけません。仏様は全てご存知です」と、諌められたのです。
ませた子だったからか、真に受けませんでしたが、以来、何かよからぬことを考えると、どこか上の方から人を超えた眼に見つめられている気がしたものです。ののさまとは、どんな方なのか。毎日仏壇に蝋燭を灯し、お経を読む祖母のイメージが浮かびました。最初で、たぶん最後の、ささやかな宗教体験です。
学生時代に親しくなった女性は、カトリックのキリスト教徒でした。聡明で才能ある人だったけれど、わたしはついに彼女を理解することをあきらめました。誰かを分かろうとするとき、自分をその人の立場に置いてみることで心を推し量ります。ところがわたしは信仰というものを持ちません。しばしばそれは、先へ進めない壁でした。
聖書、経典などの教義を学ぶことに興味はあっても、学びと信仰は別物です。
実は、子供のころからわたしを見つめ続ける「眼」を、いまも意識します。ただ年齢を重ねて得た体験と知識から、実態のないその眼は「ののさま」ではなく、人それぞれが心に持つ「良心」なのだと理解しています。
さまざまな出来事や事実を、ささやかな理知で理解し整理することで、わたしは生きています。理知の範囲に収まらないことがあっても、それを宗教に結びつけようとは思いません。
「沈黙」(遠藤周作、新潮文庫)は、キリスト教を禁じ、弾圧した江戸時代の物語。読者の信仰心の有無に関わらず、小説として面白い。信仰を捨てずに拷問されて殉教する信徒たち。捕えられ、最後に棄教するポルトガル人の宣教師。宣教師に寄り添いながら密告するユダのような弱者。
なかなか凝った構成になっていて、単純なストーリーですが読ませてくれます。作品が面白いのは、キリスト教の枠を超え、宗教を題材に、人間の強さと弱さを問いかけてくるからです。
信者への理不尽な拷問と死を前に、沈黙し続ける神とはなになのか。現実を救ってくれない神を、なぜ、人は死ぬまで信じ続け、求めるのか。ポルトガル人宣教師の踏み絵のシーンは、この問いにキリストの幻覚が現れて答えるハイライトです。
とても面白く、しかし消化不良のような余韻も残るラストでした。具体的には書きませんが、踏み絵のキリストが彼に語った言葉は、結局一人の人間の主観の中での自己解決に過ぎない。彼はついに「転び」ます(棄教)。
人の願いに沈黙を続けるのではなく、そもそも神はいない。無信仰な人間がそう切り捨てるなら、この小説自体が茶番劇です。しかし茶番劇であっても、人の切ない真実が漂っています。 「神とは何か」を通じ、久しぶりに「人とは何か」という問いかけを思い出させてくれた小説でした。
こちらは昨夜から雪が降り、朝から銀世界になっています。