ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

蕎麦 飛騨路と剣客商売 〜食の記憶・file7

 特段、蕎麦にこだわりはないけれど、あの歯触りと淡白で微妙な味、喉越しはうまいと、60歳を過ぎてから知りました。十割、八割、それぞれの風味があります。

 地元の駅の立ち食いだって捨て難い。これは立ち食いが、激務だった現役時代のさまざまな記憶と結びついているからで、「おいしさ」にはそんな要素も大きいと思います。

 うどんも好きです。特に寒くなるこれからは、天ぷらと玉子を割り入れて、ぐつぐつ煮立っているのが運ばれてくる鍋焼きなんてのが実にいい。冷えたビールと。

 しかし年々、うどんより蕎麦を食べることが多くなってきました。

 思うに、わたしは蕎麦の味の奥深さを、年齢を重ねることでようやく分かってきたのか。エネルギー補給を第一にする若いころは、ステーキとか脂がのった寒ブリ、手間ひまかかったフレンチやイタリアンなど、主張の強い料理に走りがちだったから。

 高齢化社会の反映なのかどうか知りませんが、いまは十割や、自家製を標榜したお洒落な蕎麦屋さんが増えて、昼時に列ができていることも珍しくありません。

 趣味の蕎麦打ちが高じ、退職後に田舎の古民家を買ってお店に改装、第二の人生は蕎麦屋になった。なんて話も聞きます。かと思えば、街中のお洒落なレストラン風で、十割と雰囲気を売りにする店が、実は住宅リフォーム会社が業態拡大の戦略として経営していたりします。さて...

 

 朝、目が覚めると、日本海側にしては珍しい小春日和だった先日。太陽を浴びて輝く外の景色を寝ぼけまなこで眺め、心の中でぼそっとつぶやきました。

 「どこか行こう」

 平日であろうと、思い立ったら即行動に移せるのが引退したじじいの特権です。しかも車の運転が好きな。

 昼、寄り道含めて2時間半の気ままドライブを経て、岐阜県飛騨市の市役所に車を停め、街並みを歩いていました。飛騨市の古川地区(旧古川町)は、土蔵群と街中を流れる川、9月には狐の嫁入りを再現する「きつね火まつり」が行われる穴場観光スポットです。

 何度か訪れているのですが、今回は10年ぶりくらい。

 街中の交差路にあった、「あと70歩で新そば」の立て看板につい誘われました。見ればレトロな外観の蕎麦屋さん。がらりと引き戸をあけて入ると、ダイヤル式黒電話があったり(もちろん現役引退の電話ですが、線繋げば使えると店主は主張。いや、アナログ機器だから無理じゃね、とわたしは思い)店内も、江戸とは言わないまでも昭和レトロ。観光客でけっこう混んでいました。
 「おいしさ」というものが、料理で100パーセント決まるのでなく、思い出や雰囲気、同伴者などに影響されるのは言うまでもありません。街中の蕎麦屋にわたしが求める究極は、「一人で食ってたら、剣客の秋山小兵衛が手下の岡っ引き連れて入ってくるような」お店。あり得んけどね。
 さて、地元感満載のエプロンお姉さんの勧めに従い、塩だけふった蕎麦がいけました。半分はつゆにくぐらせていただき、両方を交互にもぐもぐ。
 と、引き戸を開けて、見目麗しき若い女性が一人、入ってきました。空いているのはわたしの隣席のみ。うーむ、秋山小兵衛はすてがたいが、これもよかろう。女性はメニュー開くと、しばし目をさまよわせ、エプロンお姉さんにやおら英語で質問。
 「え、外国の人なんだ」とわたし。
 で、地元感満載のお姉さん。うっとりするような発音のEnglishで受け答えして注文が決定。なにやらアドバイスまで。
 その間箸が止まり、目が点になりました。飛騨は観光地としての底力がすごい!。こうして蕎麦に関する思い出が一つ増えました。