ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

古代史を巡った6日間 〜ぶらぶら歴史好きの奈良路

 10月最後の月曜日から11月初めにかけて、奈良を巡ってきました。朝に車で家を出て、昼食や休憩をはさんで5時間。JR奈良駅に近いホテルに早めにチェックインしました。

 大和国(やまとのくに=奈良県)は、古代史の中心舞台です。これまでわたしは2回しか訪ねたことがありません。中学時代に1日、家族で奈良観光。法隆寺などぼんやりとした記憶が残るのみ。30年前に出張で1泊したときも、取材先を訪ねてとんぼ返りでした。

 日本という国の故郷のような土地ですから、一度はしっかり見たいと思っていたのです。行こうと決めたのは春でした。歴史学者の桃崎有一郎さんが「邪馬台国はヤマトである」という新説を発表(「文藝春秋」3月号)し、これが斬新で分かりやすかったことがきっかけでした。

 弥生時代の終わりごろ、中国の魏に使者を送った連合国家・邪馬台国の所在地については、九州説と畿内説があり、決着に至っていません。専門的なことは門外漢ですが、桃崎さんはここに一石を投じたのです。

 邪馬台国をいつから、なぜ「ヤマタイ」国と読むようになったのか。「ヤマト」国ではないのか。<台>の音は、「タイ」か「ト」か。中国と日本における音韻と当て嵌める文字の変遷を、古代文献から詳細に検討したのです。

 最近の考古学の推測の一つは「奈良県桜井市北部にある纏向(まきむく)遺跡が邪馬台国跡であり、近くの箸墓古墳は卑弥呼の墓である」というものです。この説を、音韻という予想外の視点から補強する論文でした。

 わたしの中にむくむくと「箸墓古墳に行きたい、そこに立って邪馬台国の人々の生活や女王・卑弥呼に想いを馳せたい」という欲求が湧いてきたのです。邪馬台国と古墳時代の大和政権が一本の線でつながれば、現代に至る日本という国家のルーツは正にそこだということになります。

 訪問期間は一週間ほどにし、秋の正倉院展の開催期間に絞って準備しました。公共交通を使うか、マイカーで行くか迷いましたが、自由がきく車にしました。結果的にこれは正解。奈良県南部は古墳が広範囲に散在しているので、バスやレンタサイクルでは限界があります。

 

 チェックインして荷物を置くと、さっそく外へ。ぶらぶら徒歩10数分で、シカたちが我が物顔で歩く奈良公園に着きました。平日だというのに、外国人観光客や修学旅行の子どもたちでけっこうな賑わいです。

 閉館時間が迫る中、興福寺を参拝。夜は、事前にネットで調べたお店で軽く一杯。行き止まりの路地にある蕎麦屋さんです。カモのレバーと大和野菜の天ぷらでビールと焼酎が進み、周囲の席から会社の愚痴や恋愛話など、地元の人たちの話が聞こえてきてなかなか楽しいひと時でした。締めは温かい蕎麦。

 

 翌日はあいにくの雨模様。午前10時から、奈良国立博物館の正倉院展へ。正倉院は宮内庁が管理する東大寺の宝物庫。天平文化の粋を集めた宝物群の一部が、毎年この期間に展示されます。調度品、服飾具、文書などため息が出る一方、館内の人の多さにもため息しました。

 その後、前日は訪れながら見る時間がなかった興福寺の国宝館へ。千手観音菩薩立像が圧巻でした。どの角度からも見飽きません。

 奈良公園は広いエリアに奈良国立博物館のほか東大寺、正倉院、興福寺、春日大社などがあり、1回100円のバスが巡回しています。ちなみに公園前には県庁も。昼食は県庁6階にある職員食堂(一般利用可)へ行きました。

 6階なので市内が見渡せ、食券買って、そぼろ丼510円...だったか520円だったか記憶曖昧に、50円の小鉢2つ、50円の味噌汁をチョイス。味もボリュームも合格点でした。もちろんセルフサービスだけどね。 

 

 午後は東大寺。大仏もですが、大仏殿(金堂)の壮大さに圧倒されました。大仏殿は火災に遭い、今あるのは江戸時代の再建で財政難から規模が縮小されました。しかし高さと奥行きは創建時のままだそうです。奈良時代に、いまある以上の巨大木造構造物を建築したとは、その技術水準のすごさに驚くのみ。

 大仏は聖武天皇の発願で、天平17(745)年に制作が始まりました。当時は凶作、大地震、疫病など世の中が不安定で、世の平穏無事を祈念したのです。

 特に、以前にはなかった正体不明の流行病。

 大仏発願の10年前、朝鮮半島との窓口である九州で、未知の病いが発症しました。感染力が強く、高熱を発して致死率が極めて高いこの病気は、猛威をふるって北上。ついに奈良の都に達します。そのころ権力の中枢を占めていた藤原四兄弟までが、相次いで感染し、死んでしまいました。

 天然痘ウイルスが、初めて日本に上陸した経緯です。わたしたちの記憶に新しい、新型コロナのパンデミックを思い出してしまう。奈良時代に有効な薬や治療法があるわけはなく、仏様に快癒を祈るだけでした。

 18世紀の終わりにイギリスで種痘(ワクチン)が開発されるまで、天然痘は世界中の人びとを苦しめ、死に至らせてきました。日本では赤が魔除けの色です。 福島の民具「赤べこ」や飛騨の「サルボボ」などが赤いのは、魔除け厄除けのため。その「魔」を代表する流行病が天然痘でした。

 吉村昭さんの小説「破船」は、天然痘で村人が死に絶える悲劇。以前、このブログでも紹介しました。(破船

   赤べこ

 さて、とんだところへ脱線しました。奈良で何かを見ると、つい脳内でさまざまに思いが転がってしまうのです。アニメファンに倣えば<聖地巡礼>の、それも楽しみの一つ。

 

 3日目。連泊したホテルを出発して橿原市へ向かいました。朝の光の中の唐招提寺。鑑真の御廟に向かう苔むした木立がきれいでした。

 

 そして法隆寺、藤ノ木古墳、橿原考古学研究所附属博物館。橿原市のホテルに入り、夜は安い居酒屋チェーン店で痛飲暴食。

 翌日は明日香村。丘陵地にある県立万葉文化館を訪ね、近くの飛鳥寺まで散策。明日香寺は推古4(596)年に蘇我馬子が建てた、日本最古の本格寺院です。

 キトラ古墳は幸運にも、石室に描かれていた天文図の壁画が特別公開中でした。高松塚古墳では、写真で何度もお目にかかった飛鳥美人と対面。と言っても、こちらは展示施設の複製なんですけど。

 

 途中、近鉄吉野線飛鳥駅の近くに車を停め、「おむすびやさん」という小さなお店で遅い昼食。鮭おむすび一つと豚汁。連日食べ過ぎ、飲み過ぎだったので、軽くしました。

 年配の女性が切り盛りしているお店で、客はわたしだけ。壁画ではないリアルの?飛鳥美女でした。

 「次は吉野のサクラも見たいんですよ」

 「吉野山に向かう道筋に家があるんですけど、サクラの季節は渋滞でとても家から出られません」

 「そう聞くと尻込みするなあ」

 「車でよく旅をなさるんですか」

 「それほどでもありません。数年前に東日本大震災の被災地を1週間回って以来かな」

 「こちらは阪神淡路のとき、奈良もたいそう揺れて怖い思いをしました。生まれて初めての揺れでしたよ」

 「正月の能登半島地震はうちも震度5強でした。ほんと驚いた」

(おむすびに添えてあるのはもちろん奈良漬)

 

 日没が迫るころ、ようやく箸墓古墳に辿り着きました。案内表示や付属施設のない古墳なので、しばらく周辺をうろうろ。何しろ木の生えた小山にしか見えず、通り過ぎていたのです。

 ようやく、宮内庁管理の掲示板がある鳥居を見つけました。本来は前方後円墳で、「日本書紀」には昼は人が造り、夜は神々が造ったという不思議な記述があります。また被葬者は皇女だと記されています。

 果たしてここに、鬼道(占いや予言)で倭の国々を統率した女王・卑弥呼が葬られているのか。魏から贈られた金印や多数の銅鏡(三角縁神獣鏡と呼ばれる)が発掘されたら、決定的なのですが...。

 弥生時代後期の人びとの暮らしは、さまざまな発掘物からかなり詳細に分かっています。ただ文字のない時代、言葉は残らないので、話し言葉は推測するしかありません。日本語の原型であることは確かにしても、どこまで理解できるだろう。古墳の前で耳をすましながら、ふとそんなことを考えた。肌寒い風が吹いて、木々が鬱蒼と茂っていました。

 

 

 天理市に泊まり、翌日帰宅予定でしたが、そのまま帰る気になれません。結局、滋賀の近江八幡市にもう一泊。信長の安土城跡で戦国の覇者を偲び、ついでに彦根城も見学しました。

 よく食べ、よく歩き、両足裏にまめができてしまい、まだ歩くと痛い。そして次はいつどこを訪ねるか、もう考え始めています。