ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

そこのヒト、リンゴ食べたいの? 〜「母なる自然のおっぱい」池澤夏樹

 書架の奥にある(はずの)本を探すため、周辺に堆積した単行本やら文庫やらをよけているうち、つい目的外の1冊を開いてしまうことがあります。ページをめくり、そのうち、本来探していた本は後回しになってしまい。

 「母なる自然のおっぱい」(池澤夏樹、新潮文庫)は、かくして机上に再登板した予定外の本でした。自然と人間に関する12の論考からなる、知的で創造的な1冊。読売文学賞受賞作。内容はすっかり忘れていたけれど、おかげで再読も新鮮でのっけから面白い。ある友人の話....

  人影まばらな小雨の動物園で、友人はオランウータンの檻の前で立ち止まりました。幼さの残るオランウータンがリンゴをおいしそうに食べています。なにしろ暇だったので、友人はその様子をずっと見ていました。

 

 しばらくして、オランウータンはまた彼の方を見てちょっと困ったような顔をした。手の中のリンゴを見、もう一度、檻の外の彼の顔を見た。そしておずおずとそばにやってくると、「きみも食べたいの」と言わんばかりの顔でそのリンゴを彼の方に差し出した。

 

 人と、人以外の霊長類を隔てるものはなにか。オランウータンやサルの知能、心はこのレベルであるという尺度自体が人間目線であって、自然という大いなる視点に立脚していません。

 動物園のエピソードが、高度な文明を築いた人間の孤独と独善について綴る、この論考(もしくはエッセイ)の入り口になっています。ありふれた自然讃歌や、悲壮で一途な環境保護論でないところがいい。

 さてこの本、つい読み進めてしまったのは、理由があります。裏表紙手前の末尾に、レシートと出版社のPR折り込みが、挟まれたままだったのです。

 

 買ったのは1999年11月14日(日曜)、東京の高田馬場・芳林堂書店で。25年前。当時は新聞社の田舎支社の記者でした。編集部はわたしと、若い記者の2人っきり。

 地方都市なのに、自転車店主が自宅で血まみれになった殺人事件(壁一面に頸動脈から噴き出した血が飛び散っていて、一番乗りで駆けつけた警官が腰を抜かしたーと、署長が言っていた)や、猟銃を持った銀行強盗が1500万円奪って支店次長を人質に逃走したりと、いやはや物騒でした。

 寝不足の重い頭を首の上にのっけて、連日走り回っていたような。

 そんな時期に、わたしは高田馬場でこの本を買ったのか?。なぜ、どんな必要、もしくは理由で東京へ行ったのか、まったく記憶にありません。馬場であれば、おそらく仕事でないと推測はするけれど。

 一枚のレシートから四半世紀前にタイムスリップ。しかし見える風景と、霧の彼方の見えない記憶が混在しています。ふう。窓から部屋に入ってくるキンモクセイの香りは、そろそろ終わり。

 秋の推移を風で知ります。

           

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