なぜこの本なのかなあと、自分でも思います。この人ならまず「真鶴」とか「センセイの鞄」とか。確かにそうなんだよね、なんですが。今日読んだある本について書く気が起きず、そんなときは狭いこの部屋の書架から、「口直し」(今日読んだ作家さん、ごめんなさい)に、むかし読んだ本を取り出します。
メーンディッシュではないので、だいたい短編集です。今日は「おめでとう」(川上弘美、新潮社)でした。久しぶりに読み返したのですが、やはり川上さんは魔法使いです。
男性用小便器を横に倒して、美術展に展示されていたら、どう感じるでしょう。しかもタイトルは「泉」。革新的作品だと絶賛するには、リアルからの〝飛躍〟を埋めるための知識と感性の蓄積、プラス冒険心への理解が必要です。ともあれ、1917年に制作されたデュシャンの「泉」はシュールレアリズム、そして現代アートの出発点とされています。
川上さんの小説に、それほど乱暴な〝飛躍〟があるとは言いません。逆に言えば、読者にそんな横暴な要求はしません。ただ、それが〝飛躍〟であることを読み飛ばしてしまいそうな、さらりと気負わない言葉があるだけです。
さて、この本の冒頭の作品から。
あたしは、同性愛の相手であるタマヨさんと奇術の舞台を見に行ったことがありました。
奇術師は箱抜けや美女惨殺などのはでな奇術は行わず、ただただ動物を出し続けるのだった。はつかねずみから始まって、天竺ねずみ、鳩、おうむ、うさぎ、七面鳥....(中略)。
奇術師はしばらく肩で息をしながら、舞台の上にじっと立っていた。しわぶきひとつ、聞こえない。長い間があった。
最後にあらわれたのは、象だった。(「いまだ覚めず」から)
おいおい、真面目にそれはないだろ。いくらなんでも。
と、思わないのです、不思議なことに。普通なら即座に突っ込みたくなるリアルからの〝飛躍〟を、さらりと馴染ませてしまう魔術。魔術ですから、かかる人もいれば、かからない人もいると思います。
引用した「いまだ覚めず」は、10何年か前に愛し合ったタマヨさん(今は男と普通に結婚している)を久しぶりに訪ね、鳩を見て、泣いて、帰ってくるあたし、ただそれだけの原稿用紙30枚くらいの短編です。文章は限りなく平易、明解。引用は部分ですが、全体がさりげない魔術で成り立っていて、ささいな棘のように刺さります。
短編には、川上さんのコアが分かりやすく表れていると思います。このコアを、濃く発展させたなら長編「真鶴」、口当たりよく誰もが楽しめる濃度にすれば「センセイの鞄」その他。作家としての力量に拍手です。
川上マジックに、ハマるタイプかそうでないか、短編集の「おめでとう」あたりで試してみるのもいいかもしれません。「おめでとう」は、本の帯によれば「しんしんしみる よるべない恋の十二景」だそうです。
*************************