ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

ちょい悪の、看護婦さん 〜「ベスト・エッセイ2016」日本文藝家協会編

 「やめられない、とまらない〜」という、ビールと大変相性のいいスナック菓子の古典的コピーが、この本を読んで脳裏によみがえりました。頃よく日も暮れたので、さっそく飲み始めましたが、手元にリアル<かっぱえびせん>がないのは...痛恨の極み。

 2016年に各種雑誌や新聞に掲載された短文(長くても原稿用紙数枚)を77篇を集めた「ベスト・エッセイ2016」(日本文藝家協会編、光村図書)。気が向いたら本を開き、日数をかけての拾い読みにぴったりと思っていたのに、あっ、もう全部「食べて」しまった。

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 掲載作家を五十音順に並べると、朝井リョウ、浅田次郎、あさのあつこ....で始まり、最後は綿谷りさ。一篇一篇に異なる味があり、つい「次も」となって、予定よりも早く空になった袋を眺めている次第です。いや、ほろ酔いの今の気分で言えば、もう飲み干してしまったワインの空ビンか。

 ズバリ、わたしのベスト・エッセイ2016は、大御所や人気作家を退けて、吉村萬壱(よしむら・まんいち)さん=03年の芥川賞作家=が、2016年11月15日の日本経済新聞に書いた「規則破り」でした。

 

 吉村さん、教師だった20代後半に盲腸の手術で入院しました。ベッドに横たわっていると....

 廊下で看護師さんたちがジャンケンをする黄色い声がした。やがて一人の看護師さんが部屋に入ってきて、丁寧に下の毛を剃ってくれた。彼女がジャンケンの勝者だったのか敗者だったのか、今もって分からない。

 この看護婦さん、後日、吉村さんの規則破りを見つけます。病棟の消灯は午後9時ですが、こっそり深夜まで本を読んでいたのです。しかし看護婦さんは、吉村さんをまったく責めません。「おやすみなさい」と、カーテンを閉めました。

 その後小説家になるまで、吉村さんは27年間にわたって教育現場にいました。生徒指導という締め付け。

 生徒に規則を守らせられない教師は、力のない教師だと見なされた。全員が規則を守ると、気持ちが良かった。気持ちが良かったのは生徒ではなく、教師の方である。

 教職を去り、振り返って分かるのは、規則に反抗したり、巧妙にすり抜ける生徒には問題がないということ。

 問題は過剰に学校に適応してしまう生徒の方である。融通がきかず、真面目で、間違うことを極度に恐れる生徒たちだ。

 彼らは自分を必死に規則の方に合わせようとし、我慢と努力を重ね、自分の正しさを疑うことなく大人になって社会に出ます。しかし

 人間が最も酷いことをするのは、「自分は正しい」と思い込んだ時である。

 一方で、社会に出て自分の「正しさ」が通用しないと、折れやすい。

 吉村さんの話は、教育のあり方やネット社会の言葉の暴力に言及しつつ、あの看護婦さんに戻ります。就寝時間の規則破りを見つけた看護婦さんは、咎めることなくその責任をそっとわたしに「託した」のだ、と。

 規則厳守の立場からは、ちょっと悪い看護婦さん。そして原稿の締め、書き手としての「芸」が心憎い。

 「色々悪いことした挙句こんな所まで逃げてきたのよ」と告白するスナックのママは、いい人と相場が決まっている。

 これだけのことを、さらりと書いて原稿用紙7、8枚くらいか。それでも新聞掲載にしては結構長い部類ですね。

 

 めくれば瀬戸内寂聴さんら数人が、追悼原稿を書いています。ああこの年にあの作家が亡くなったのか、などと感慨にふけったりもできます。

 このシリーズ、毎年刊行されていますが、読んだのは初めてでした。他の年も読んでみようかと、雑食で大飯喰らいのわたしは今、もぞもぞ食指を動かしています。