ことばを食する

本たちとの、出会い、すれ違い、言葉との恋愛。つれづれなるまま記していきます

するする読めて、切ないぞ 〜「まぐだら屋のマリア」原田マハ

 新約聖書の福音書によれば、限りなく官能的な娼婦であり、しかも聖女でもあったというマグダラのマリア。一方、小説の方は「まぐだら屋のマリア」(原田マハ、幻冬社文庫)。まぐだら屋は、さいはてのごとき海の寒村にぽつりと建つ定食屋。そこにマリアがいると、笑ってしまいそうですが、こうしたパロディ、あるいは「軽み(かろみ)」があるから、このシリアスな小説がいっそう、切なくなります。もし、100%直球で迫ってくる作品だったら、たぶん重すぎる。

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 死ぬつもり、無一文で、主人公の紫紋がとっさにバスから降りてしまった地が尽果(つきはて)です。そこで見つけたあばら屋、ではなくて食堂が「まぐだら屋」で、切り盛りしているのが「マリア」。マリアのもとへ、活きのいい魚を届ける漁師が克夫(カツオ)さん。冷静に考えると、やはり笑ってしまう。

 ところが、笑えないのです。それどころか、ふだんよく落ち込む私は、まぐだら屋の定食が、無性に食べたくなったのです。最初は刺身定食、次にキンメの焼魚定食。次の日は...。あっ、もちろん料理とかグルメをテーマにした小説ではありません、念のため。

 マリアの作った食事に救われ(無銭飲食)、やがて食堂を手伝うようになった紫紋に、あるときマリアがこう漏らします。「...なんだかもう、すっかり紫紋君に頼っちゃってるんだなあ」。その言葉を受け止めた紫紋の心理描写。

 胸の中を窮屈に流れる小川に、ふいに手を浸されたような気がした。

 死ぬつもりだった紫紋の中で始まる、新しい心の動きが、清潔な比喩で綴られています。自然に紫紋が心をよせ始めるマリアは、左手の薬指の先が欠けています。女性の左手薬指がなにを意味するか、まあ解説する必要はありませんね。マリアが経てきた、そして今も見つめている地獄。

 この作品は、絶望と、再生の物語です。紫紋、マリア、そして二人の周囲を巡る不完全で、魅力的な人びとの。

 原田マハさんは、私にとっては「外れ」のない作家。もともとキューレーターとあって、ピカソの傑作をめぐる「暗幕のゲルニカ」、「楽園のカンヴァス」のような美術系の小説は独壇場のような感じだし、他のテーマで書いたものもほぼ一気読みします。

 もし1作だけあげろと言われたら、少しへそ曲がりかもしれませんが、バスに乗って海岸にあるあばら屋同然の食堂に行き、マリアのこしらえる定食を食べたいと思ったこの小説なのです。