わたしが若かったころですから、ずいぶん昔になります。身動きもままならない大都市の非人道的?な通勤電車は別として、ふつうの電車内では、吊り革につかまりながら大人たちが器用に新聞を広げ、学生や高校生は参考書か文庫本を読んでいました。
活字を追いながら、降りるべき駅と時間はしっかり意識にあって、だれも乗り過ごしたりはしません。そそくさと新聞や本をしまい、人の流れに乗ってホームに降りる。1日はそんなふうに始まり、わたしもそんな光景の中の一人でした。
いま電車に乗れば、老いも若きも見つめているのはスマホです。もう少し時代が進めば、みんなサングラス型のウェアラブル端末をかけ、黙々と前を見ているようで、実は各自がメガネレンズに映し出されるSNSや情報を読むようになるのかな。
街中から本屋さんが消えていく。...と言われ始めたのは、20年くらい前です。
amazonなどネットによる本の通販が増え、電子本の流通が始まりました。もう一つ、街中の本屋さんの打撃になったのはコンビニです。毎週、毎月数が捌ける週刊誌月刊誌は、本屋さんの経営の柱でした。その売り上げを、コンビニに脅かされたのです。
それでも地方であればまだ命綱がありました。教科書販売です。地元の小中学校と結び付いて、年一回、4月は大きな売り上げが計算できました。ところが最後の命綱も、少子化や学校統合で危うくなった。いや、もう命綱が切れてしまったケースも多いでしょう。
21世紀に入って以降、街中の本屋さんは次々に閉店しました。社会環境が、存続を許さなくなったからです。環境が許さないところに、生き物は棲めません。「身近に親しめる本屋さんがあってほしい」という思いは、もはや独りよがりのわがままに過ぎないのが現実です。
街中の中小の本屋さんが相次いで閉店したのに、日本における本の総売場面積はその後も増加を続けました。郊外型の大型書店が、相次いで開店したからです。
中心部の魚屋さんや肉屋さんが軒を連ねていた商店街が廃れ、郊外の大型ショッピングセンターができたのと同じですね。少々時間差はあったけれど、書店業界も同じ道をたどった。
ところが本に関しては、近年ついに売場面積が減少に転じています。大型書店も立ち行かなくなって、わたしの近辺でも閉店が相次いでいる。
本は、著者や内容は当然として、1冊1冊が<文化>です。意匠を凝らした装丁、表紙や扉に、さらに本文ベージのデザイン、写真やイラストを使用するならクリエーター、紙の選択に至るまで、多くの専門家の総合力を集めた成果なのだから。
下流では、印刷や製版会社の人と技術がかかわっている。そこにスポットを当てればまた、違う歴史と物語があります。
また紙の選定にしても、紙質や色見本の分厚い短冊(サンプル)があり、短冊の1枚1枚に開発と商品化に至る過程があるのです。どれを扉に使い、本文の紙の品質はどうするか、精魂込めて本を作るなら悩みます。貧しい経験ながら、わたしも分かる。
そんな<本>という文化が、滅びつつある。売れないから、紙質を落とし、手間暇を省き、しかも価格が高い。文庫本でさえ、分厚いと1000円を超えます。本が好きな庶民にとっては辛い現実です。それもこれも負のスパイラルですね。
わたしは本という文化と添い寝してきた世代なので、いまは先細ったお互いの未来を思い、酒でも飲むしかない。振り返ればそれは一つの幸せであり、ほろ苦い哀しみでもあり、部屋の書架の一角を眺めてついつい昭和を思い出します。
やれやれ。
(書架の一角。本の魅力は、内容に合わせて手間暇をかけてデザインし、書いてある中身のイメージを的確に目に見えるもの、手に触れられるものにしてあること)