森に接した大学都市、ドイツのゲッティンゲン。留学中の<私>は人気ない駅舎の陰で、日本から訪ねてくる友人を待っています。
<私>は東日本大震災で被災した過去を持ち、ゲッティンゲンを訪ねてくる彼は、大学時代の美術史の研究仲間。沿岸部に住んでいた彼は、2011年3月11日に津波にさらわれ、現在も遺体は見つかっていません。
「貝に続く場所にて」(石沢麻依、文藝春秋9月号)は、令和3年上半期の芥川賞受賞作です。あの大災害による暴力的な日常の分断、そして鎮魂と、生き残った罪悪感を、作者はどのように形象化したのか。わたしはそれが知りたくて、作品を手にしました。
<私>を訪ねてきた、この世の人ではない彼は、ごく普通に話し、ゲッティンゲンに滞在を始めます。ただし誰との会話の中にも、東日本大震災は直接出てきません。<私>の内面でだけ、その記憶はさまざまに現れ、心のひだを染めて打ち寄せ続けています。
いわば幻想小説なのですが、ゲッティンゲンという都市そのものが寓話的な異空間として描かれます。この都市に生きた過去の人々もまた普通に現れてきて<私>に話しかけ、日常と幻想が渾然一体となって、目の前の現実を作り上げているのです。
一般的な意味で、これは「読みやすい」小説ではありません。
<私>にとっての現実を描き出していく作者の文体(エクリチュール)が特異で、ここに躓く読者は多いと思います。軽い気持ちで読もうとすると、跳ね返される。例えば、
その時、野宮がゆっくりと紡いだ海の素描は、青い硝子を差し込んだように、私の中の青の印象に重なり染み通っていった。天気や季節、時間を映す海や空の描写は、観察に徹した透明な眼差しによるものだったのだろう。海のそばに住む人たちの感覚的な経験や言い伝えは、広げたカタログのページの古い絵の上にこぼれて、私の耳には遠い場所の物語のように響く。
こんなタッチの記述を積み上げて作品が成り立っていて、芥川賞の選評を読むと、選考委員によって受け止め方は賛否さまざまです。
「作者はレディメイドの言葉を極力排し、メタファー(暗喩や隠喩)を自由連想的に展開し、無意識からコトバが立ち上がるその現場にいようとする」(島田雅彦さん)
などは好意的な意見です。
一方で、辛口なのは
「作者が<文学的>と信じている言い回しが読んでいて照れ笑いを誘う。<意味の解けた物の塊の映像が別に浮かびあがり、歯痛を真似て疼き出した>とか。うぷぷ...全然、意味解かんないよ!」(山田詠美さん)
吉田修一さんなんかは「この作品を詩人の散文として読んだ」と述べていて、う〜ん、「詩人の散文」にしちゃったら、小説の枠組みを棚上げするわけだから文体論争?から上手く逃げてるよなあ...。
わたしは賛否どちらもそれなりに納得できて、おまけに選者たちの作家としての立ち位置が垣間見えるようで、なかなか選評まで楽しめました。
この文体が、良くも悪しくも作者・石沢さんの個性であることは間違いありません。個人的には、生真面目に凝りすぎていて息抜きができず、辛い。ちょっと「握りすぎた寿司」みたいな印象でした。
一方で、一部の熱烈なファンが付くタイプの作品だと思います。わたしなどはふと、小説の舞台装置から澁澤龍彦さんを連想しました。
「貝に続く場所にて」が、東日本大震災の体験を小説という形で昇華する(しようとする)営みであることを考えるなら、わたしは異空間を創り上げる力業に注ぎ込んだ膨大なエネルギー、そして真摯な姿勢に対して敬意を抱きました。