ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

フェルメールの黄色

 フェルメールの絵を見るほど、心に広がるのは静謐です。

 これほど慎ましやかでありながら、色彩の力を画布に定着した人はいないと思います。情熱的で荒々しく、構図も色も雄弁な画家はたくさんいます。フェルメールはわたしにとって、その対極。日常を描いて、光の粒がひっそりと画布を満たしているような。

 「牛乳を注ぐ女」

 

  「真珠の耳飾りの少女」以上、画像はwikiから。

 ヤン・フェルメール(またはヨハネス・フェルメール)は、17世紀のオランダに生きた寡作の画家。当時のヨーロッパで特段の注目を集めることなく、30数点の作品を残した人でした。ところが今や、バロック期を代表する画家の一人に数えられ、日本でも大人気ですね。

 窓から降り注ぐ光が、ミルクを注ぐ女性と室内に明暗を作っています。真珠の耳飾りの少女は、光を浴びる顔をひねり、真っ直ぐに鑑賞者を見つめてきます。どちらも左から注ぎ込む光。そして...

 フェルメールに限らず、名画と言われる作品はなぜか、左から光が射す作例が多い。その疑問が最初に浮かんだのは、20数年前に国立西洋美術館でフェルメールなど17世紀オランダ絵画の企画展を見たときからでした。

 いったん意識すると、特にルネッサンス以降、左を光源とした絵の方が、右を光源とする作品より圧倒的に多い気がしはじめました。さらに人のポーズ、顔も、光の元がある左に向いた構図が多い。

 この疑問をSNSに書いたら、知人から有力な仮説?が続々と寄せられました。「北半球において家屋は明るい南向きに窓を設けるから、左からの光になるのでは」「右利きが多いから人間は無意識に、左から右へ視線を流す習慣が定着しているのが理由」など。みんな、似たような疑問を持っていたんですね。さて、あなたはどう思いますか。

 

 わたしがフェルメールを知ったのは学生時代、マルセル・プルーストの大長編「失われた時を求めて」(岩波文庫、集英社文庫などあり)を読んだときでした。小説の中でプルーストは、フェルメールの黄色について書いているのです。

 20世紀初頭の小説です。出てくるのは、パリで開かれたオランダ美術展に展示されたフェルメールの風景画。絵に描かれたある壁の、黄色の素晴らしさについてでした。

 「色」に感銘するということを、わたしは初めて学びました。ちなみに20世紀になってフェルメールが国際的に再評価されたのは、プルーストがきっかけだったという説があります。個人的に真偽のほどは確かめていませんけど。

 確かに、色の視点で、「牛乳を注ぐ女」や「真珠の耳飾りの少女」を見てみると、実にセオリー通りに描かれているのが分かります。どちらの作でも印象的な青色と黄色の組み合わせ(着衣やターバン)は、ほぼ完璧な補色関係です。

 補色というのは、色相環の正反対にある組み合わせで、補色関係の色を隣接させると、双方が反対色を引き立て合うのです。作品は描かれて300年はゆうに過ぎているからかなり絵の具自体の彩度は劣化しているはずなのに、未だ上半身と下半身の着衣が鮮やか(牛乳を注ぐ女)。室内の各モチーフも、補色を生かして存在しています。

 フェルメールの時代に色相環の概念や理論はなかったはずで、画家としての感覚で画面を創り上げたことになります。これはもう、寡黙な色彩の天才なのかな。

 もちろん、補色の原則だけでフェルメールの色は説明はしきれないと思います。そもそも絵の具は、複数の色を混ぜるほと彩度が落ちて濁ります。求める色を出そうとすると、ついパレット上で混色してしまうのですが、その結果色は鮮やかさや透明感から遠ざかる。

 でも、しかし、チューブの絵の具はたいてい、そのままでは求める色じゃない〜。これが難しさで、わたしを含めた素人の絵は下手に、あるいは無意識に混ぜるから色が濁ってしまい、公募展の入賞クラスの作品でも、くすんだ色の数々を見かけます。本物のプロの色は、繊細なのに濁っていません。

 いや、素人レベルとフェルメールを比べる時点で間違ってるか^^;

 

 静かなるフェルメール。少女に見つめられるあなたの心に残ったのは、青でしょうか、黄色でしょうか。