ことばを食する

くーの、極めて私的な読書覚え書き。誰かにお薦めできると思った本を取り上げます

彼だけがたどりつけた 松林図の世界 〜「等伯」安部龍太郎

 能登半島の入り口にある石川県七尾市は、海に面した静かな市です。前田藩の城下町である金沢より、海路を使えば越中(富山)に近く、万葉時代からから良港を持つ海運の地として栄えました。栄えた面影は既になく、今は人口減少に悩む地方都市の一つですが、この地には県立七尾美術館があり、長谷川等伯の企画展を継続して開いています。

 水墨画の最高傑作とされる国宝「松林図屏風」(東京国立博物館所蔵)を描いた長谷川等伯は、七尾に生まれ、33歳で上洛するまで仏絵師として名を馳せていました。昨年、訪れた日は曇り空。七尾美術館でわたしは、最新のデジタル技術で精細に再現された「松林図屏風」に対面し、落とし気味の照明の中でしばらく立ち尽くしました。本物は国立博物館でも普段は公開されていないし、模写とはいえ十分な迫力でした。

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                                     Wikipediaから

 「等伯」(安部龍太郎、文春文庫)は2013年の直木賞受賞作。武士の家に生まれながら、絵仏師の家に養子に出されて成長した信春(等伯)が、主家の政争に巻き込まれる事件から物語は始まります。養父母を失い、故郷を追われ、妻と幼い息子を連れて京を目指す3人。苦難の旅路に信長軍の戦乱が襲いかかります。

 洋の東西を問わず民衆が財力を持つ以前、芸術は時々の権力者の庇護を受けることで栄えることができました。ルネッサンスの天才たちも、狩野派や等伯、若冲など全て同じです。等伯の生涯は信長から徳川幕府の初期まで、まさに戦国と動乱の時代に重なりました。

 仏教画を描いて寺に納める地方の「絵仏師」から、だれも到達したことのない「絵師」の世界を目指した男の生き様を、飾り気のない文体で積み上げた作品です。こんな言い方が適切でないのは承知ですが、安部さんは男の作家。きらきらした、あるいは驚きに満ちた感性の流れで読ませるのではなく、がっしりとスクラムを組んだような味わいで引き込む小説です。

 信長、秀吉、公家や寺院勢力を描き、その全景の重要なピースとして等伯が配置されます。ライバルになる狩野派、千利休の自刃。歴史事実を解釈する面白さも見逃せません。そして、なんども悲劇に見舞われた等伯が最後にたどり着くところは水墨のモノクロの世界。松林図屏風です。

 近年の安部さんは「道誉と正成」など、南北朝を書いた長編を次々に発表しています。この時代については北方謙三さんのいくつかの作品があります。安部作品の方は未読なので、北方作品との対比も含めてこれから読むのが楽しみです。