ことばを食する

本たちとの、出会い、すれ違い、言葉との恋愛。つれづれなるまま記していきます

燃え尽きるとき 美しい夢 〜「鉄道員 ぽっぽや」浅田次郎

 最初に読んだのがいつだったか、定かではありません。数年後、再読したくなったときに本が見つからなかった。部屋のどこかに必ずあるはずなのに、下手に本棚や周辺をひっくり返すと、収拾が付かなくなりそうであきらめました。仕方なく、翌日もう一度買ったのが「鉄道員 ぽっぽや」(浅田次郎、集英社文庫)です。

 そして今日、手に取ったのが3回目。主人公の乙松は定年間際、北海道の廃線がささやかれる終着駅で、ただ一人働く駅長です。

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 ページを開けば、乙松ではなく、まず脇役たちを登場させて、さりげなく路線の歴史や自然を織り込んだ冒頭。気づけばもう、読者は作品の世界に導かれています。落ち着いた筆致の積み重ねですが、「これはいい作品になる」という書き始め時点での作家の予感が、密かに漂ってくるような「入り」です。

 5分遅れで終着・幌舞駅に到着した最終便の若い機関士が、零下20度のホームで出迎える「おやじさん」を見つけます。

 

 「見てけらしょ、おやじさん。なんだかお伽話みたいだべさ」

 轍の音さえくぐもって聴こえる。老いた幌舞駅長は、粉雪の降りしきる終着駅のホームに、カンテラを提げて立っていた。

 

 ようやく登場する老いた幌舞駅長が、主人公の乙松です。読み直して気づいたのですが、乙松の登場シーンで、すでに「お伽話」という言葉が使ってあります。

 ここからの物語はある意味、痛切なお伽話そのものです。孤独な乙松のところへ、小さな女の子が、少女が、大人の入り口にさしかかった女子高生が、やってきます。

 少女たちの正体が明かされたとき、凡庸な作品であれば興ざめするかもしれません。それは、ありえないだろ!...と。しかし浅田さんは、類を見ない書き手です。隙のない構成や人物造形だから...などと、下手に頭を捻るより、その筆に乗せられて楽しむのが何よりですね。

 夢かうつつか、という言い回しがあります。乙松のもとに現れた少女たちは、夢であり、うつつであり。ふと、自分の最期に、こうしたうつつは(夢は)訪れてくれるだろうかと考え、どれだけ真剣だったかこれまでの生き方を振り返ってしまいました。

 「鉄道員 ぽっぽや」は、表題作など8編を収めた短編集です。凄いのは8編が、どれも負けず劣らずの粒ぞろいであること。私事ですが、私も明日をもって長年勤めた会社を去ります。乙松に定年後の人生はありませんでしたが、私はいつかまたこの本を手に取ることがあると思います。