最初に告白しておけば、25年前にひっそり書店に並んでいたこの本、わたしは1ページ目から最後までを、通読したことはありません。
買った当初は目次で全体構成を眺め(庭に関するエッセイ、詩、書簡のような断片、掌編小説、水彩画などが集められている)、冒頭から読み始めました。しかし、途中に詩が出てきて躓き、通読を断念しました。
そのまま書架の奥で眠るか、いつか処分されても不思議はなかったのですが、これ、部屋の本を整理するために手に取るとつい開いてしまい、拾い読みするのです。
おそらく本が持つ雰囲気、装丁、デザインの、とりわけ著者であるヘルマン・ヘッセのモノクロ横顔写真に惹かれるものがあるのでしょう。花木の世話をするおじーちゃんそのもの、みたいな。それにわたしも、庭仕事が好きだし。
こんな経緯で「庭仕事の愉しみ」(ヘルマン・ヘッセ、V・ミヒェルス編/岡田朝雄訳、草思社)にまとめられた原稿には、未読のものがあれば、二度三度読んだエッセイもあるはずですが、今は自分でもどれがどれか判然としません。
当たり前ながら、「四季の草花の手入れ法」といった類のハウツー本ではありません。その手の情報はネット上にたくさんあって、便利な時代になりました。
強いて言うならこの本、植物たちと会話するためのハウツーと、癒しについて書いてあります。
例えば、春とはどんな季節か。
庭を持つ者は、この時期にはそれほどのんびりとしていられない。彼らは庭を歩き回り、冬のうちにしておかなければならなかった多くのことがなおざりにされているのに気づく。今年はいったいどんなことになるのだろうかと思案し、(中略)庭仕事の道具も調べて、鋤の柄が折れていたり、木バサミが錆びていることに気づく。
わたしなどもこの通りで、必要になって初めて、刃こぼれした剪定バサミの刃先を思い浮かべ、昨年のうちに研磨して錆止め油を塗っておきたかった芝刈り機も、冬の間放ったらかしでした。
もちろんガーデニングに熱心な愛好家は、道具も肥料も苗も、準備万端です。ヘッセはそうした人びとを讃えます。
彼らは賞賛と感嘆に値する。そして彼らの庭は、今年も私たちの庭よりすばらしく輝き、何か月もの間私たちを恥入らせることだろう。
芽吹き、開花、濃い緑、落葉や枯死。
この単純で確実な循環全体が、どんな小さな庭でも、ひそかに、すみやかに、まぎれもなく進行している。
当たり前の自然の摂理を、当たり前と見過ごすのではなく、土で手を汚し、一体となることの喜びが、さまざまに綴られています。また、冬の庭に、夏の花を咲かせることはできないように、人のどんな企ても自然の摂理からはみ出すことはできないのだと。
ヘッセの水彩画も随所にあって目にも楽しい1冊。
ヘッセについては、改めて紹介するのもはばかられるくらいで、ドイツのノーベル文学賞受賞者。「車輪の下」「デミアン」などがよく知られていますが、わたしは中学のときに「車輪の下」を読んだきりです。
さて、今日わたしがしたこと。
昨年11月から物置で埃を被っていた芝刈り機を取り出し、分解して汚れをぬぐい、刃先を研磨しました。
あと2カ月もすれば芝は緑濃く、こんなふうになります。あ、去年は庭に、老犬・くーがいたんだ...。
(今は<市>ですが、市町村合併前はなんと<村>だったので、そこそこ広くて安い土地には事欠かない田舎です)