安東次男さんの「花づとめ」という本について、昨日書いたばかりですが、無性にわたしも同じことをやってみたくなりました。もっともわたしの場合、取り上げるのは短歌や俳句ではなくて、短い詩についての<解>です。
読みの深さに関して、「花づとめ」に遠く及ばないのは百も承知。ただ、不要不急の外出自粛が続き、スポーツや文化イベントも軒並み中止となれば、昔好きだった詩に思いを巡らせてみるのも一興か...と思ったりして。
当然のことながら、わたしの極私的な<読み>の記憶と、現在の解を加えて以下を展開します。取り上げるのは清水哲男さんの 美しい五月 という15行の詩です。
戦後詩というジャンルはやたら小難しいのですが、この作品はカレーの辛さに例えるなら☆3くらい(☆5が激辛。凡人は読むに耐えん!レベル)。異例ですが、独断により作品を分断して進めます。
美しい五月 は次の2行が作品の「入り」になります。
唄が火に包まれる
楽器の浅い水が揺れる
「ん?」...?。といきなり反応せず、どうか、まだ純真で傷つきやすかったあの青春時代を思い出してみましょう。「悲しい」「哀しい」と書いていいのは、人に見せない日記の中だけです。痛みを伴う心の動きを、詩は違う言葉でイメージ化します。
唄とは何か。愛しい女性か、夢か、あるいは自らの心か。それは炎に包まれて消えていくのです。音を奏でる楽器は自分の胸。揺れる胸の痛み。よろしければもう一度、上の2行を読んでみてください。
そしてこれに続く3行
頬と帽子をかすめて飛ぶ
ナイフのような希望を捨てて
私は何処へ歩こうか
ナイフという言葉は、やはり少年か青年のイメージです。自分だけでなく相手まで傷つけてしまう、曇りのない純真な刃先と切れ味。それが若い時代の希望であり、危うさだあー、などと今は年寄りとしての感慨もあり。ところが挫折しちまっても、次の日という日常は容赦なくやってくるから、さあ、どこに向かえばいいのだろう。
記憶の石英を剥すために
握った果実は投げなければ
たった一人を呼び返すために
声の刺青は消さなければ
過去を振り返って女々しく、初々しい。記憶の石英 って、あの子とのたくさんの思い出か。しかし、いくら嘘の入り込まない言葉で(声の刺青 を消して)呼んでも、一度失った人は決して戻ってきません。うん、体験的にもそれが真実w。いよいよ、詩はラストへ。
私はあきらめる
光の中の出合いを
私はあきらめる
かがみこむほどの愛を
私はあきらめる
そして五月を。
この終盤の6行によって、作品はただ感傷的な抒情詩に終わることなく、次のステップへ開かれています。あきらめる とは何を?。純粋、一途、曇りのない心。自分の中の醜さを引き受け、相手にも同じ側面も認めなければ、リアルにおける人と人のつながりは成り立たないのだから。それ、さりげなく痛すぎる学び。
そして、一番最後の そして五月を だけに付された句点の『。』は、まあ、作品をどう締めるか詩人としての思い入れとテクニックかな。ここはエピローグみたいなものなので、拘りたい人だけが気にすればよいと思います。
それにしても新緑の五月とは、どんな月なのか。人それぞれの五月があるはずです。
***
いちまいの、みずみずしい魚を、不器用な包丁で腑分けしパーツごと独りよがりに講釈してしまいました。申し訳ないので最後に、完全な姿で再録します。
美しい五月
唄が火に包まれる
楽器の浅い水が揺れる
頬と帽子をかすめて飛ぶ
ナイフのような希望を捨てて
私は何処へ歩こうか
記憶の石英を剥すために
握った果実は投げなければ
たった一人を呼び返すために
声の刺青は消さなければ
私はあきらめる
光の中の出合いを
私はあきらめる
かがみこむほどの愛を
私はあきらめる
そして五月を。