気温35度を越える猛暑は当たり前で、40度に迫る日も珍しくありません。打ち水?。そんな風流を楽しんでいたら命の危機です。外出にマスクは必需品で、しんどいなあ。そんな8月も下旬に入り、「暑さもあとしばらく」と安心できないのが近年の気候変動です。
梅雨の豪雨に続いて、夏は酷暑にゲリラ豪雨や雷雨、秋になればスーパー台風の風水害が、毎年日本列島を襲います。異常気象がこうも繰り返されるなら、もはや異常ではなく、それは<日常>です。
昨年、千曲川が氾濫した長野県の被災地を訪ねました。氾濫から2週間余り後だったのですが、この時もマスクが必需品でした。秋晴れだったため、取りきれない汚泥の残土が車の行き来で舞い上がり、街を覆っていたからです。
「現場を踏め」(まず現場に行け、心に刻め)というのは、若いころから先輩に言われた私の習性みたいなもので、仕事の第一線を離れてもなかなか抜けません。3年前にようやく訪ねることができた東日本大震災の被災地では、復興の難しさに心の底が冷えました。特に、原発による汚染は10年単位で消えるものではありません。
福島県のJR浪江駅前にある大震災前の案内図。H29年撮影。現在は「過去の姿を伝える証言板」です。
20世紀末以降の異常気象に関しては、おおもとの原因と目されるのが地球温暖化です。
私がまだ幼かった昭和の高度経済成長期、環境破壊とは限定的なエリアにおける公害でした。熊本県八代海沿岸の水俣病、富山県神通川流域のイタイイタイ病など、海や川、大気が汚染されて深刻な被害をもたらしました。
今考えるなら、打つべき対策は明快でした。工場などからの有害物質流出を食い止めることで、問題は克服されたのです。
ところが現代、地球規模の環境破壊は解決が困難を極めます。被害者は私たちや未来の子や孫の世代ですが、温室効果ガスを生む加害者も私たちであり、便利さに慣れきった生活様式と社会活動のせいなのです。新型コロナによる経済停滞で温室効果ガスの排出量が減ったという、世界気象機関の報告はなんとも皮肉です。
そして温暖化対策は足並みが揃いません。アメリカの例の大統領など、はなから温暖化そのものを戯言扱いです。一方で、発展途上国の「先進国が豊かさを獲得する代償として温暖化が引き起こされた。われわれがこれから発展しようとするとき、温室効果ガスを出すなというのか」という主張も、確かに理が通っています。
地球の温暖化は、人の愚かさと真の賢さが問われる困難な問題です。
温暖化が生態系を破壊して感染症リスクを増大させたと、一部の専門家が指摘しています。いっそ熱中症や気候変動による自然災害、新型コロナの死者を「温暖化の犠牲者」として毎年カウントしてはどうでしょうか。世界で、日本で、いったいどれほどの数字になるのだろう。
少なくともたくさんの抽象的な議論より、一つの具体的な数字は、はるかに説得力を持つはずです。