幻冬舎代表取締役社長、そしてカリスマ編集者である見城徹さんが、対談を通して自らを語っているのが「異端者の快楽」(幻冬舎文庫)です。見城徹という一人の編集者・人間がくっきり浮かび上がるとともに、対談相手の中上健次、石原慎太郎、さだまさしさんらのふだん見えない生の声が聞けた(読めた)のも楽しかった。
対談9本にエッセイ、「発言」と題したインタビューや講演が収録されています。
2008年に太田出版から刊行された単行本に、新たな序章を加えた文庫版です。収録されている中上健次との対談は1987年ですが、当時の中上はどんな壁にぶつかっていて、IT時代の黎明期に文学のそんなあり方を考えていたのか....と、ちょっと感慨深いものが。肝臓癌で46歳で早逝したのが5年後の92年であり、もし今も健在だったらと改めて思いました。
あれ!いきなり脱線。本のタイトルはそのまま<異端者=見城徹>の<快楽=異端者の自己実現=編集者という仕事>です。見城さんの仕事に対するエネルギーの凄さに元気をもらうと同時に、わたしのような凡人は半ば呆れてしまいます。
そもそも「編集者」とはどんな仕事か、どれだけ理解されているか、はなはだ疑問です。作家に原稿を依頼してもらってくる人、というのは仕事のほんの上っ面。まあ、上っ面をメーンにして生きているサラリーマン編集者も多いと思いますが。
見城さんはこんな発言をしています。
僕はとにかく、かつてないものに異常に反応する病理があるんです。常にかつてないものを作りたいんですよ
相手が作家であろうとミュージシャンであろうと、編集者としての自分と組んで化学反応を起こしそうな才能を見つけたら、見城さんは猪突猛進・ぶつかっていきます。「かつてない作品をこれから作ろう、あなたならできる」と。
競馬に例えるなら、作家はサラブレッドです。しかし実力を出せない馬、あるいは自分でも気づいていない才能を、埋もれさせたままの馬がいます。優れた編集者は勝ち馬を育てる調教師であり騎手なのだと、この本で知ることができます。
対談相手である石原慎太郎さんは、ちょっと残念そうにこんな発言をしています。
編集者が原稿をいじることで作品の魅力がにわかに倍になることもあるからなあ。昔は(中略)名編集者がいたけど、今はそんなことができる編集者がいなくなってしまった。血相を変えて作家とケンカするような人はもういないね。
よほどの大家でない限り、程度の差はあっても、作品作りとは作り手と編集者の共同作業なのです。ですから心の中で「あの芥川賞作家は、直木賞作家は自分が育てた」と思い、仕事の醍醐味にしているのが優れた編集者でしょう。
その中でも、カリスマ編集者と言われる見城さんですが、これはもう本を読んで実像に触れてもらうのが一番です。もう一言だけ、見城さんの発言を抜き出します。
朝に人を殺しても、昼には溺れている子を助けるというのが人間じゃないですか。
不思議で底知れない、人間というものの本質。ところが最近は、ネット上だろうがテレビだろうが、「善か、悪か」という単純な二元論の上に乗った受けのいい言葉が氾濫しています。一人の人間の中には善も悪も棲んでいるという前提に立った、大人の議論が絶えて久しい気がする....。