ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

ときに劇薬 使用法にご注意を 〜「逃亡者」中村文則

 仕事が首尾よく終わって、仲間と握手。仲間は魅力的な女性で、顔には出さないけれど本当は強く惹かれています。ごく短い時間重なり合った、彼女の冷たい皮膚の感触、薄い掌と指の儚げな、しかし芯の通った強さと体温に触れ、彼女という<特別な存在>が掌からあなたの心に染み込んできます。

 ところが、これがもし憎み、恐れている相手との握手だったらどうでしょうか。

 手というパーツは骨、複雑な関節類、筋の構造、そして体温にだれしも大差はありません。しかし握手という単純な行いにさえ、人それぞれ天と地ほど異なる現実の感触があり、みんな自分だけの現実のパーツを積み上げて日常を生きています。

 世界を作り上げているのは、実は膨大な<主観>というあやふやな個々の現実の集積です。知性が<客観的>という共通項を束ねて概念化し、社会を成り立たせています。しかし世界が個々の主観によって描き出されたものである以上、<客観的>はあっても純粋な<客観>はあり得ません。

 集合的な共通項と個の主観の大部分が重なると「常識的でつまらない人」、そうでなければ「個性的」あるいは「ヘンタイ」。さらにはみ出してしまうサイコ犯罪者がいるかと思えば、社会的に許されている<逸脱>も結構あって、例えばそれは恋愛ということになります。アバタ(客観的)もえくぼ(主観)。

 主観を突き詰めることは、「人とは何か」を問う根源的な出発点になり、文学はしばしば新しい地平をそこから描き出してきました。

 かつて中村文則さんの初期作を読んだとき、ごく自然に思い浮かんだのはサルトルの小説「嘔吐」でした。自分の奥深くにある、外の世界への違和感と嫌悪感を掘り起こされる感触。社会という客観的現実に馴染めない主観の根元に、いきなり触れられた気がしたからです。

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 「逃亡者」(中村文則、幻冬舎)は、複数の主観で描き出された世界。本の帯の謳い文句を借りれば「信仰、戦争、愛ーー。この小説にはその全てが書かれている」ということになります。付け加えれは、極限状態に置かれた人間にとって芸術(音楽)とは何かーという問いかけも提示されています。

 僕という一人称の主人公が、殺人者から追われる第一部。Bという不可思議な殺人者。第二部は僕が語る過去と、キリスト教迫害の歴史。第三部は第二次世界大戦で南方で死んだトランペッターの手記という形の一人称物語。そしてエピローグ。

 魔物のようなトランペットが、全編を貫く縦糸になって物語が進みますが、常に主観で語られる重い言葉の水量と複数のテーマの大きさに、読んでいるわたしはしばしば消化不良を起こしそうになり、ページをめくる手を止めるしかありませんでした。

 それが中村さんの作家としての存在感であり、同時に生半可な読者なら弾いてしまうと思います。この小説に、癒しや楽しさを期待しても虚しいだけです。多くの人にとっては世界が楽でないからこそ、フィクションに癒しや笑いを求めるのですが、そもそも中村さんはフィクションで本体の方の現実の根元に迫るからです。

 作中に登場する不可思議な殺人者B。正体は最後まで描かれません。主人公をはじめとした一人称の視点では、登場人物のだれもBの正体を捉えることができないのですから、読者にとってもBは謎のままです。しかし私たちを包む世界は、実際に追いきれないたくさんの謎が存在しています。Bもそうした現実をなぞっているわけです。

 第三部の終わり付近で、「これは辛うじてハッピーエンドの物語か」と思ってしまいました。見事に、エピローグで私たちは再び混沌に突き落とされます。

 お勧めの一冊。ただし今時にしては珍しい劇薬なので、敏感な方は使用法と副作用に注意。麻痺して効かないか、逆に効きすぎることも考えられます。単純に元気がほしい時の栄養ドリンクではありません。

               

  

                

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