一人の新聞記者のルポルタージュです。事件は2004年6月1日、長崎県佐世保市の大久保小学校で起きました。6年生の女子児童が、同級生の御手洗怜美(さとみ)ちゃんを多目的教室に呼び出し、後ろから首をカッターナイフで深く切って殺害。返り血に染まった女子児童は、自分の行為を隠すことも、泣くこともなく認めました。
亡くなった怜美ちゃんの父は、毎日新聞佐世保支局長。その日から新聞、テレビ、雑誌が大挙して佐世保に押しかけました。「謝るなら、いつでもおいで 佐世保小六女児同級生殺害事件」(新潮文庫)の筆者、川名壮志さんはこのとき、毎日新聞佐世保支局の記者。被害者の父である御手洗さんの部下であり、怜美ちゃんも含めた家族的な付き合いがありました。
記者は事件を追いかけ、警察や関係者、周辺の人物に突撃して取材するのが仕事です。ところが川名さんはこのとき、記者であると同時に、被害者家族と近すぎる関係にありました。その葛藤が、このルポの出発点になったと思います。
作品は2部構成。1部は僕(つまり川名さん)に上司・御手洗からかかってきた1本の電話から始まります。「怜美が、死んだ」。6月1日の事件発生から、9月15日に家裁であった少年法審判まで、さまざまな現場を心ならずも取材者として内側から見た、事件の様相が語られます。
2部は被害者の父である御手洗さん、加害児童の父、そして怜美ちゃんの兄から何度も聞き取ったそれぞれの心がレポートされています。タイトルの「謝るなら、いつでもおいで」は2部の中から取られていますが、これは不条理に直面しても生き続けるしかない人間の、精一杯の言葉です。
子どもが引き起こした凄惨な事件に直面したとき、大人社会はまず「なぜ」と問いかけずにはいられません。司法、警察の文脈で言えば殺害の「動機」。社会全体としては家庭環境や個人的な精神病的傾向など、何らかの理由を背景に置こうとします。
刑法であれ少年法であれ、社会が一つの事件を決着させるプロセスの中で、それは決して欠かすことのできない要素だからです。しかし、事実の向こうにあるリアルを求めた、この「なぜ」ほど難しい問いはありません。おそらく永遠に決着することのない問いかけです。
続編の「僕とぼく」(新潮社)が、5月に刊行されました。僕とぼくは、怜美ちゃんの2人の兄です。