ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

白い舞台に 彫り込まれた人間群像 〜「壬生義士伝」浅田次郎

 読みながら何度か、涙腺が緩んでしまったのです。「やっぱり、やられちまうなあ」と苦笑いし、こっそり手の甲を目尻に持っていくことになりました。誰かに見られていないか、辺りを気にしながら。本の奥付を見ると2002年だから、17年ぶりの再読になります。

 わたしは未だに、男の涙を恥じる意識を強く持った古臭い人間です。書店で本の帯に「感涙必至」などとうたってあると、見た瞬間に白けて読む気が失せます。ところがごく稀に涙腺をやられてしまう本があって、そんなときは素直に作品の力を認めます。知的な感動や面白さは目に見えませんが、涙という目に見える体の反応を否定できるはずがありません。ときにはどんな高尚な作品より強い、力です。

 「壬生義士伝」(浅田次郎、文春文庫)は、初読の時にも涙腺をやられました。作品の初めから終わりまで、要所要所の背景に描かれる、冷たい雪。そういえば短編の名品「鉄道員 ぽっぽや」も雪深い北海道が舞台でした。登場人物たちの輪郭を、くっきり浮かび上がらせるような白い背景です。

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 主人公は、新撰組の地味な隊士・吉村貫一郎。もと南部藩の貧しい足軽。妻子を飢え死にさせないために、脱藩して新撰組に加わります。文武に秀で、実は沖田総司にも劣らない剣客、いや人斬り。守銭奴と蔑まれ、血にまみれながら、しかし子どもたちに慕われます。

 その貫一郎が生の声で出てくるのは、死の前夜からの独白のみ。大部分が50年後、大正時代まで生きのびた新撰組の人斬り、斎藤一など様々な人物の回想という複数の視点で語られ、貫一郎と維新前後の時代が浮き彫りにされます。この重層的な物語の構造は圧巻です。

 文章の刃先は切れ味鋭く、エンターテイメントを突き抜けて、もっと深いところにまで届きます。狙いすまして読者の急所に刃先を打ち込む、浅田さんのプロとしての力ですね。それも短編のように一太刀で済まないから、まいるなあ。

 「面白さ」の先まで、読み手に刺さってしまったとすれば、その先とやらには何があるのでしょうか。

 貫一郎は限りなく愚直で融通が聞かず、妻と子のためならとんでもない守銭奴になり、義のためなら人をも切る。もしそんな人物が近くにいたら、気軽に親しくなれそうもありません。ところが理想として、貫一郎のような武士を密かに心の奥底に眠らせていた自分に気づくのです。

 あの人はね、まちがいだらけの世の中に向かって、いつもきっかりと正眼に構えていたんです。その構えだけが、正しい姿勢だと信じてね。

 曲がっていたのは世の中の方です。むろん、あたしも含めて。

 だから果てるしかなかった貫一郎。吉村貫一郎は、新撰組に実在した隊士です。そして「壬生義士伝」は浅田さんが作家として円熟に至り、そこに若さという精神的な体力が伴っていたからこそ書けた時期の作品だと思います。

 読み終えて、心に残るのが南部藩のお国言葉。貧乏足軽の、美しい妻へのプロポーズはこんなふうでした。

 嫁こさ来てくんなせ、わしと夫婦(めおと)になってくだんせ 

                      

   

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