ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

実はよく分からない、事実と虚構

 長い原稿を書き始めると、いつ戻れるか分からない旅をしている気持ちになります。こう表すと少々気取っているようですが、実態は、旅程は描けても、すぐに資金が尽きて途中で呻吟する貧乏旅です。

 資金が尽きたなら、稼ぐしかない。具体的には追加取材を繰り返す、新たな資料を探し、読み込みを深める。

 小説のような文芸作品(フィクション)であれば、自らの感性や才能を頼りに世界を自由に構築できますが、ノンフィクションはそれが許されません。確固とした(と思われる)「事実」の破片を少しでも多くかき集めて、再構築していきます。

 ところが、ノンフィクションの面白さと難しさは、まさにその土台にあります。

 例えば、半世紀連れ添ったおしどり夫婦。2人にとっての半世紀を、夫と妻それぞれが自分のノンフィクション作品に綴ったとき、出来上がった2作の風合いは同じでないはずです。極端な話、片方は「幸福と感謝の半世紀」になり、一方は「忍耐と苦渋の半世紀」という作品になるかもしれません。

 そう考えると、リアルの世界であろうと、確固とした「事実」が存在するという概念自体が消し飛びます。優れたジャーナリストほど、事実と呼ばれるものの脆さを知った上で、事実の上に仕事(作品)を構築しています。ちなみに名が売れたジャーナリスト=優れたジャーナリストとは限りません。

 さて、実はこのようなノンフィクションの難しさを回避する手法が、一つあります。ルポルタージュ(ルポ)という形式です。代表的なのは、沢木耕太郎さんですね。

 取材者である「わたし」が見た事実、「わたし」が感じた真実を、ノンフィクションとして構築するやり方です。冷めた目で分析した客観性より、「わたしの目の前に現れた出来事に、わたしは心打たれた」という<事実>を重視します。ルポルタージュには、ルポならではの臨場感と面白さがあって、魅力的なジャンルではあります。

 ルポは、私小説と限りなく接近するノンフィクションですが「客観的・社会的事実からははみ出さない」という点に境界線があります。ま、今のわたしの仕事は、そちらではありません。

 

 ん。あれ...。行き詰まって、気分転換しようとして、なんだか酔っぱらいが小難しいこと書いてしまったぞ。

 失礼しましたww。

 先月から生活リズムが仕事中心で、気分転換はブログより、車を走らせること。昨日は目が覚めてから突然、飛騨・高山目掛けてクルージングし、途中の道の駅で山椒の実の醤油漬を買いました。

 ...というか、これを目的にアクセルとブレーキを踏み、ハンドル握ること往復3時間余り。白いご飯にのせると、しみじみ美味しいのです。これ。

 本日は午後から3時間の聴き取り取材。どんな言葉を引き出せるか、取材対象との真剣勝負。疲れた..、でも楽苦(たのくる)しい。おそらくこれが、もの書きの端くれとして最後の、大掛かりな仕事になるだろうなあ。