悠久とか壮大とか、そんな形容がちっぽけで使えなくなるのが最先端の宇宙論です。「なぜ宇宙は存在するのか はじめての現代宇宙論」(野村泰紀、講談社ブルーバックス)は、理系科目を高校入学と同時にあきらめたわたしにさえ、ぞくぞくするような興奮を与えてくれました。
細部にこだわって苦しむ必要はないと思う。要は全部の理解など、はなから諦めて、大きな知的ストーリーを楽しめばいいのです。わたしの場合。
例えば食いしん坊のあなたが、世界トップレベルのシェフが集う厨房から出された、究極の一皿に心奪われるとします。「この味を創るには、AとBとCの香辛料がこんなタイミングでこのように...」と解説されて、さらに感動します。
ところが、あなたはAもBもCも名前くらいは知っていたとしても、実は見た目も特性も理解していないし、そもそもスーパーレベルでは売っていない香辛料。でもでも、解説されれば、目の前の一皿の美味しさによけい深く(何となく)納得する。
現代の宇宙論という知的な一皿も同じです。相対性理論、インフレーション理論、超弦理論など、普通なら目が弾いてしまう言葉たち。難しすぎる中身はさておき、そうした物理学の成果の上に究極の一皿・現代の宇宙像があって、これがわくわくする描像を提示してくれるのです。
(もちろん本書の中では各理論について、宇宙論に必要な部分に絞って初歩的な解説はされていて、その分かりやすい記述は特筆ものです)
さて、
「天体望遠鏡」と言えば、月や太陽、星に焦点を当て、複数のレンズを通過した光が描き出す像を見る道具。これが昭和の人間のイメージです。
しかし、現代の宇宙観測は「電波望遠鏡」。ん。なに、それ。パラボナアンテナで宇宙をどうやって見るんだ?。長年にわたるわたしの素朴な疑問にも、この本は答えてくれました。(一部、ネットでも補足勉強したけれど)
そもそも<光>とは、=極めて限られた範囲の<電波>だというのです。「極めて限られた範囲」とは、人間が<光>として認識できる範囲です。
夜空を見て星が輝いているのは、わたしたちが見ることができる電波(可視光線)だけを見ているから。それしか見えないから。
もし、人間の視覚がもっと幅広い帯域の電波を光として認識できたら、夜空のバックは闇ではなくて、宇宙誕生時からのさまざまな光に充ちあふれて輝いている!。
ひえー、電波望遠鏡の後ろにこんなストーリーが隠されていたのか!!。
つまり電波望遠鏡は、人間には見えない眩い光の渦を観測しているのですね。感動。
本来のテーマである宇宙論からしたらこれ、取るに足りない瑣事なんですが、文系人間が読んでいるとこんな驚きにあちこちで出合えて楽しい。
現代の宇宙像。理論の多くを観測が裏づけた、裏づけつつある厳密な学問・宇宙物理学が描き出した宇宙像は、この稿の冒頭に戻るしかありません。悠久とか壮大とか、そんな形容はちっぽけで使えない。
わたしたちが属する銀河系は、今も膨張を続ける宇宙という空間にある砂漠の砂一粒みたいなもの。で、銀河系と呼ぶ一粒の中に、またまた広がるとてつもない空間の中の一粒が太陽系。
今記述したのは空間の概念ですが、これに時間の概念(光速とは何かなど)がミックスされ、さらに4次元以上の多次元を想定しなければ全体像を描ききれない。いやはや。
そしてウイルスから人間に至る地球の生き物たちも、現在の宇宙の姿も、宇宙誕生時のビッグバンにおけるある偶然(それが偶然か必然かは、人間の主観による色付けに過ぎません)がなかったら存在しなかった。どんな偶然かはお読みください^^
う〜。う...。この大きすぎる概念を(宇宙物理学の帰結を)、どうしたら皮膚感覚として実感できるのか。自分が試されているような...。
とにもかくにも、厳密な観測によって裏づけられた現代理論が描き出す宇宙創造の過程と姿は、宗教の天地創造を超え、またどんなミステリー小説も、足元にひれ伏すしかない気がしました。