ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

ひそかに咲いた桜のような 〜「哀愁の音色」竹西寛子

 雪深い地に住んでいるとはいえ、立春を過ぎれば新しく降り積もった雪も数日のうちに消えていきます。この時期からわたしの中では、春、満開の桜を待つ心が密かに芽吹きます。

 圧倒されるような桜の名所はもちろんいいけれど、たまたま出合った公園に立つ1本や、農家の広い庭先でソロを奏でるような老木も捨てがたい。晴れた日のウオーキングを趣味にしていると、そんなささやかで静かな桜が、思いがけず眼に入るのも楽しみです。

 「哀愁の音色」(竹西寛子、青土社)は、ひっそりと花ひらいた1本の桜のような味わい。2001年に出版され、おそらく今も店頭に置いてある書店はほぼないでしょう。わたしはたまたま最近、古本で入手しました。竹西さんをご存知ない方も多いと思うので、この稿の末尾に略歴を付すことにします。

 タイトルから切ない物語を連想しそうですが、そんな期待をした方には謝ります。ごめんなさい!。 

 万葉集や源氏物語から、現代の事象までを取り上げた、批評もしくは随想を集めた1冊です。その筆遣いのきめ細かく、的確なことといったら。文脈の流れ、ざわめきについ心が同調してしまうのは、きっとわたしと相性がいいからなのでしょう。

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 「かなし」と聞いて反射的に「たのし」を思うのは、反対語としてこの二語に親しんでいる現代の言語習慣のせいであろう。漢字を当てれば「悲」ひとつではなく、「哀」や「愛」でも通用する古い時代の運用を、私は今も通用させたいと思う。

 一語に多様な表情を与える昔の言葉の使い方は、えてして情緒的曖昧を許す自己満足だけの表現に陥りますが、一方で「それ以外にはあり得ないと思わせる適切さで用いられた時」には、比類のない深みを持って刺さります。.....

 表題作になった一文からの引用、及びごく一部の要約です。

 読みながらわたしがふと考えたのは、「言霊」という、なんとも不思議な日本人の言語<信仰>についてでした。

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 さて、本を読んで、「これについて書かなければ」と思うのは普通ですが、これは「なんでもいいから何か書きたい」と思わせてくれる1冊でした。ちょっと気取った文でこの稿を始めてしまったのは、その雰囲気の乗せられたせいかな...と言い訳。

 

竹西寛子 日本の小説家評論家。編集者の傍ら丹羽文雄主宰の「文学者」に参加。評論『往還の記』で注目され、次いで『儀式』で小説家としても認められた。古典文学に深い知識を持ち、古典文学を現代文学の問題として考える独自の視点が一貫している。16歳の時に広島で被爆し、その経験がのちの文学活動の根幹となった。随想・随筆も多い。日本芸術院会員。文化功労者。(wikiより)

 

 竹西さんについては、前にも一度このブログで書いています。今読み返して見ると、これまた小難しいばかりなのですがw。

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