ことばを食する

くーの、極めて私的な読書覚え書き。誰かにお薦めできると思った本を取り上げます

心に持ち帰る 本の言葉 〜 「日本の文学論」竹西寛子

  読み終えていない本について書くのはどうなのかーと思いますが、幾つもはっとさせられる文章が出てきて、しかも途中から飲みながら読んでいるので、気づけばほろ酔い状態、となると読む集中力は途切れがちで、むしろ気ままに自分の思いを書く方が適当なのだと思い至りました。以上、つまらない前置き。さて

 「日本の文学論」(竹西寛子、講談社)は、平成5年から6年にかけて「群像」に掲載された論考11編を集めた、クロス装の上品で落ちついた装丁の本。単行本は絶版ですが、文庫があるようです。日本の古典、主に歌論と俳論を軸にして、竹西さんの思考が綴られています。

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 わたし、短歌や俳句はてんで門外漢ですが、読み進むほどに「おお!」と、心の中で感嘆符が増えていきます。たとえば、紫式部についてのこんな一節

 知識どまりの学びは創作でないと考え、学びの肉体化を表現の条件にしていたらしいという点でも彼女の存在はぬきんでている。

 うーん。世の中「知識どまりの学び」のいかに多いことか。特にわたしのような凡人においては、学びを単なる知識ではなく、日々の感性にまで血肉化する「学びの肉体化」はとても難しい。

 まあ、わたしのことはどうでもいいのであって、これはあの「源氏物語」の作者についての分析です。と分かっていても、思わず自分を反省してしまうw。

 別の箇所、古典文学全般についての記述にさらりとこんなセンテンスも出てきます。

 論理に即した明快よりも、直感の明晰を重んじている言葉の運用

 主語を抜きにして普通に通用する日本語自体が曖昧さ、ゆらぎを許す言語ですから、この文章が伝えることに目新しさはありません。しかし論理の「明快」と直感の「明晰」という言葉の使い分けに、読んでいて快感を覚えます。

 たぶん、論理の明快と直感の明晰の両方を持ち合わせていなければ、こんな文章は書けない。

 明治以降、日本の文学論は西洋から入ってきた論理というツールに頼り、明快を求めて苦闘することになります。現代でさえこの国において説得力を持つのは、しばしば論理より感性です。そしてそれは美点であると、今になってわたしは思いますが。

 本を読み終わったとき、一つの文章、一つの言葉でいいから心に持ち帰ることができたら幸せを感じます。そんな1冊との出会いは、思いのほか少ないものです。「日本の文学論」には、刺さってくる文章がたくさんあって、これから後半を読み進むのが楽しみ。

 ふと気づいてみればこの稿、細部にこだわって本筋である論考の展開に触れてないではないか....。まあ、読了前だし、古典文学についてわたし自身が詳しくないので(こちらが主な理由w)、どうかお許しください。

 ちなみにこの単行本、ヤフオクで100円落札(送料180円)しました。時間と場所を問わずに古本漁りができるから、ネット社会に感謝だなあ。