上野の国立西洋美術館に足を運んだことがある人は、たくさんいらっしゃるでしょう。収蔵作品の中核が、松方コレクションと呼ばれる個人の所有物だったと知っている人も。「美しき愚か者たちのタブロー」(原田マハ、文藝春秋)は、そのコレクションの成り立ちと数奇な運命をにかかわった男たちの物語です。
1950年代と第一次大戦後の1920年代、2つの時間軸で物語は進みます。コレクションの主・松方幸次郎が抱いた理想、日本に持ち帰れないままになった作品群。ナチスがパリを占領したとき、コレクションはだれがいかにして守り抜いたのか。そして第二次大戦後、フランス政府に旧敵国の在外財産として接収されたコレクションは、どのように海を渡って日本にやってきたのか。
小説ですから、史実を踏まえながら、作家の想像力が生き生きとしたディテールを描き出します。たとえば主要人物の一人である美術史家・田代雄一は架空の人物ですが、矢代幸雄という実在の美術史家をモデルにしたと、原田さんはインタビューで語っています。
「実際、矢代先生はパリで名作を購入する松方にアドバイスをしていたという事実がありました。矢代先生やご遺族に失礼がないように気を配りながらも、フィクションである田代を作中で自由に動かして、史実とは異なる思い切った行動もとらせています」
全編を通して伝わるのは、美術作品に対する原田さんの愛情です。タイトルの「美しき愚か者」とは、松方や田代を初めとする、アプローチはそれぞれでも絵に情熱を注いだ人たち。松方の親友、クロード・モネのような画家も含まれるでしょう。そして「タブロー」は絵のことです。この場合は有名画家の作品をさすのではなく、松方やモネら登場人物たちの群像画、でしょうか。
コレクション返還を目指し、総理自らが動いた吉田茂の交渉術、パリでの実務者交渉の行方など、読ませどころはいくつもあります。松方とモネの会話や完成前のキャンバスに置かれた色、ジヴェルニーの庭園風景など、印象派が好きな人ならその部分だけでも興味津々かもしれません。
歴史小説の面白さは近現代の美術史であれ、戦国時代であれ、小説家がどんな想像力で事実と事実をつなぐかです。例えば信長が光秀に討たれたと知った秀吉は、中国攻めから取ってかえす「大返し」で京に急ぎます。この事実は歴史ですが、信長の死の知らせに秀吉がどんな言葉を発し、何を考え、拳を握りしめたかどうか、すべて小説家の想像力です。
小説家の想像力と書きましたが、むしろ作家の歴史解釈であり歴史観だと思います。自分の歴史観があるから作家は描写を積み上げることができ、一つの史実の描写は作家の数だけ多様性があるわけです。
「美しき愚か者たちのタブロー」には、原田さんの西洋美術への視線、美術観が貫かれています。そしてこの作品は松方コレクションの史実をベースにした、美術と国立西洋美術館へのオマージュですね。
原田さんはニューヨーク近代美術館に派遣されたこともあるキュレーター、美術の専門家ですから、他の芸術系作品も読み応え十分。別系統の作品も面白くて、個人的には「まぐだら屋のマリア」(原田マハ、幻冬社文庫)などもお勧めです。