ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

新しい絵に着手

 遠くに暮らす孫娘を小品に描き始めました。

 いまはざっくりした下絵の途中。気が向いたときに、これから少しずつ進めるつもりです。細部を描きこむ前なので、まだあまり女の子らしくないかなw。でも最初のざっくりで、この子の中身をつかみたい、なんて。

 

 

 第170回芥川賞(2024年1月)を受賞した九段理恵さんが、受賞会見で作品執筆に生成AIを使ったと話し、大きな話題になっています。

 また第169回の受賞者・市川沙央さんは、会見で電子書籍による「読書のバリアフリー化」を訴えました。市川さんは筋力が低下する難病があり、分厚い紙の本を読むことが困難で、電子書籍の普及が福音になったそうです。

 昔ながらの<本>というものが、過渡期にあることは、改めて言うまでもありません。媒体としての形も、中身も。そして生成AIをツールとして使い、言語世界に新たな地平を創り出すことが新しい流れであるなら、押しとどめることは不可能です。

 変わるものは、わたしたちの想定を超えて変わっていく。その事実を後ろ向きにとらえるつもりはありません。また、音読のような機能も含めた「読書のバリアフリー化」が進むことは、素晴らしい。

 音楽の歴史をふり返れば、チェンバロを基に初期のピアノが考案され、ピアノという楽器の進化に足並みを揃えて、バッハ、ベートーベン、モーツァルトなどのピアノ曲が生まれました。

 どんな芸術であれ、創作とツールの関係は切り離すことが不可能で、お互いに補完しながら進歩してきました。ただし、生成AIは一見ピアノに例えることもできそうですが、ツールとして収まりきらない部分があります。

 ピアノは楽器でした。自ら作曲はしません。

 

 例えば画像生成AIは、わたしのプロンプト(指令)に従って、見栄えのいい絵を短時間に描いてくれます。わたしが的確な指令を試行錯誤し、描き直させる繰り返しが、求める作品(?)にたどり着く手法です。文章作成にしても然り。

 作る側として、それ、面白い?。

 確かに、創作あるいは制作の補助ツールと考えるなら、極めて有能だと思います。でも....、昭和の時代に育った人間としては、一番の楽しみを生成AIに譲りたくはありません。もったいない。

 素人のわたしでさえ(素人だから?)、孫娘の絵を描こうとして、一番最初にどこにどんな線を入れるか迷います。色をのせる過程も同じ。一つひとつに迷いと決断と結果があり、その積み重ねで一枚の絵が現れ始めます。創作の醍醐味は、完成に至る過程の積み重ねだと思います。

 極端に言えば、作り手にとって完成した作品はエピローグのようなもので、そこに至る時間にこそ、創造の(生きていることの)実感があるのではないでしょうか。

 もちろん、結果だけに対面する受け手の側には、違う論理が成り立つけれど。過程はどうあれ、高いレベルの結果を示し続けるのがプロ。うん、その物差しを否定はしません。これまた正論です。

 少し前まで、AIが人に取って代わるのは単純労働の分野だと思っていたら、とんでもない。むしろ人の方が単純なオペレーションと監視を受け持って(受け持たせてもらい)、AIが知的で臨機応変な活動をこなすようになるんだろうか。でもまあ、そんなことより

 孫娘の絵。これからどう筆を加えるか、想定がありすぎて呆然としてしまいます。わたしにとってはそっちが重要だ。