ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

京都・大原の早春

 2月がまもなく終わる寒い日、朝から車で高速道路を走りました。行き先は京都の山里、大原。かわり映えしない日常を、変えてくれるのは小さな旅です。京都は何度か訪れたことがあっても、大原とその周辺は未踏の地でした。

 現役引退し、差し迫った仕事に縛られなくなると、むしろ腰が重くなりがちです。だからこそ、思い立ったらすぐ出かけることが大切。地図アプリによると自宅から車で片道3時間余り。観光シーズンではないので、民宿をすぐに予約できました。

 民宿の駐車場に車を入れ、谷川沿いの細い坂道を歩いて上ると、右に寂光院。長い石段の向こうに門がのぞめ、門をくぐれば天台宗の尼寺が静かな佇まいで来訪者を迎えてくれました。ときどき小雪が舞い、観光客の姿は少ない。

 寂光院は推古2(594)年に聖徳太子が建立したと伝わる...と、パンフレットに教わりました。そうなのかあ。

 わたしが寂光院を訪ねたいと思ったのは、平家滅亡後に建礼門院(平徳子=たいらのとくし)が余生を終えた寺だからです。源氏によって瀬戸内の壇之浦に追い詰められた平家は、最後の海戦を挑んで滅びます。このとき、まだ6歳の安徳天皇を抱いて海に身を投げたのが、天皇の母で平清盛の娘である徳子。

 「わたしをどこへ連れて行くの」

 不安がる天皇を抱いて、徳子は言い聞かせます。

 「極楽浄土という美しい国へお連れ申すのです」

 ところが、入水後に海中に漂う徳子の長い髪が舟から見え、源氏の兵が熊手に絡めて引き上げました。一人生き残った徳子は京に送られ、出家して建礼門院となり、寂光院に入って庵を結び、安徳天皇の菩提を弔って生涯を終えました。

 「平家物語」に語られる建礼門院の生涯です。

 院内を歩くと、建礼門院が暮らした庵は残っていませんが、跡地に古い石碑が立っていました。

 立ち止まり、周囲を見回せば山ばかり。山頂あたりは前夜からの雪で白く、京の街中から車で20分ほどなのに、喧騒から遠く離れた静けさしかありません。まして遠い昔であれば、大原がどんな地だったのかと想像されます。

 さらに少し離れた三千院を訪ね、周囲をぶら歩き。苔の庭に雪が残り、平地より遅れて梅がほころんでいました。

 

 翌朝は、寒いけれど青空がのぞきました。食事をいただき、早々に民宿を出て貴船神社へ向かいました。ここもまた、対向車が来ると苦労する細い道を登ります。

 山から流れ下る川のそばにある神社を訪ねたのは、和泉式部にゆかりがあるからです。高校時代に一目惚れ(一読惚れ?)した彼女の一首が詠まれた地です。

 

 「男に忘れられて侍りけるころ」

 物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る

 

 「恋しい人につれなくされるこのごろ...」

 思い悩めば、沢に飛び交う蛍の明滅までも、私の体から彷徨い出た魂のように見える

 

 人の思いの激しさを、蛍の乱舞に重ねた31文字の短詩に、わたしはほれぼれとし、圧倒されました。恋多き歌人・和泉式部の心と身体の在りようが、この一首で自分に刻み付けられたのです。端的に記すなら、生々しい女を感じた。

 詩人としての、なんという才覚の冴え!。天性としか言いようのない資質にあふれ、だから彼女は自らの才能にふり回され、歌を詠み、激しい恋を繰り返したのではないでしょうか。

 この歌は貴船神社に参拝した折、日が暮れた御手洗川のほとりで詠んだとされています。「御手洗川」とはもともと、神社のそばで穢れを落とす川という意味で、ここでは貴船川のことです。

 神社もですが、わたしは川を見たかったのです。

(この歌については4年前に「さまよう魂の明滅」のタイトルで、このブログに書きました)

 いま、夏の川に蛍が舞うのかどうか知りませんが、冷たく澄んだ流れでした。