7月も半ばになれば、ゲンジボタルからヘイケボタルに移り替わる時期です。ゲンジボタルは大型でゆったり舞い、強い光で明滅します。わたしの住む地域なら6月中旬以降、主に里山の沢で見られます。ヘイケボタルは小型で、青白い明滅も早く、はかなげ、やはり山あいの水田地帯に飛び交います。
小学生のころまで、近くの水田にも蛍が飛んでいて、つかまえては部屋にはなして眠った記憶があるのですが、日本社会は市街地近郊で久しくそんな自然環境を失ってしまいました。
さて、蛍の季節になると毎年、わたしの中によみがえる幻想があります。
夕暮れからやがて闇に覆われようとする清流のほとりに、ぞっとするほど美しい女性が立っています。彼女のまわりを、おびただしい蛍が飛び交っている。わたしは声もなく女性を見ています。やがて乱舞する明滅の正体が、腑に落ちます。それは蛍ではありませんでした。
一人の男を思い、千々に乱れる女の魂が、立ち尽くす身体から陽炎のように立ちのぼり、青白く明滅しながら空をさまよい舞っていたのです。
イメージの源は、和泉式部の一首。
物思えば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る
物思えば・あなたのことをただただ思うと
沢の蛍もわが身より
あくがれいづる・恋い焦がれ皮膚を突き破って出てくる
魂かとぞ見る
和泉式部といえば愛の歌人。私的なイメージでは、小野小町はいいとこのお嬢さんで、和泉式部はずばり、女。清少納言は乙女心を忘れないおばちゃん、そして紫式部は眼鏡の才女(平安期に眼鏡があったかどうかは別にして)かなあ。「源氏物語」は冷徹な小説家の眼がなければ、とうてい書ける代物ではありません。
この歌との出会いは「日本詩人選8 和泉式部」(寺田透、筑摩書房・昭和46年初版)でした。当時、高校生だったわたしは和泉式部に恋をしました。
この歳になって思うのは、和泉式部の激しさは男として何よりうれしく、同時に重くて怖かったかもしれません。この歌は「男に忘れられて侍りけるころ」、御手洗川のほとりに蛍が飛ぶのを見て詠んだという但し書きがあります。ん、失恋しても、思いは肌を突き破って蛍のように舞い続けていたのか...。
以下は蛇足。
その後わたしは、現代の和泉式部に出会いました。彼女は外国人のピアニストでマルタ・アルゲリッチ。ショパンコンクールで優勝した時の彼女の演奏は、パッションに導かれた「あくがれいづる魂」そのものに聞こえたのです。美女で、激しく愛して、若い頃の生き様もぴったりです。
この二人の魅力、私に中で色褪せることはないでしょう。