80歳をとうに越えた農家の叔父が、軽トラを運転して柿を届けてくれました。これから雪が降ると、白い景色の中に鮮やかに色映えるのは柿です。わたしにとっては冬の初めの見慣れた景色でありながら、どこか懐かしい点景。
江戸時代から、越中の農民は飢饉に備えた非常食として庭先に柿の木を植えました。江戸期後半には、東北地方の太平洋側に移住してその文化を伝えました。東北の飢饉で離散した土地へ入植したのです。
全米図書館賞を受賞した柳美里さんの「JR上野駅公園口」に、そのくだりが描かれています。
もちろん柿は関東その他の地でも植えられていて、子供のおやつなどとして重宝されました。しかし貧しい農村部では、万が一の飢饉のとき、生き延びるための貴重な栄養源でもあったのです。食べ物に困らない年であれば「てっぺんの実は鳥のもの。道へはみ出た分は旅人のため」とも言われました。
柿が育んだ日本の情と文化ですね。そういえば
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(正岡子規)
なんて句もありました。
わたしが住む地では、鳥の取り分として上の実を残すことで、翌年の豊作を願う風習もあります。
ちなみに、寒さ厳しい蝦夷地に柿は自生していませんでした。今、北海道南部にわずかながら柿の木があるのは、これも越中からの入植者が持ち込んだものです。
そんな歴史文化を持つ農家の庭先の柿ですが、今はカラスか、里山ではクマが狙う。老いた叔父が観察したところ、一本の木に21羽のカラスが群がっていたそうです。追い払って収穫してみると、美味しそうな大ぶりの実ほど、もぎ取れば裏側がつつかれて穴だらけだったとか。「漫画にほん昔話」ならぬ「現代にほん田舎話」です^^;。
こうして、カラスが食べた後の残り物が、うちに届きました。
残り物といえど色の美しさと深さ。油絵具をどう使っても、とうてい及ばない気がしました。そして飢饉のとき、かつてどれだけの命を救ってきたのか。
つれづれ思いをはせながら、齧ったのでした。