ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

最後のコラム

 梅の読みは「うめ」または「ばい」だ。雨を付けて「つゆ」と、例外的な読ませ方をするのが梅雨である。手元の歳時記によれば、梅の実が黄熟するころだからその字を当てるという。

 

 昭和40年代まで母が梅干しを作った。風通しのいい納屋の土間に、陰干しされた梅がずらり並んだ。その光景はさまざまな食の記憶と結びついている。食べ盛りの食卓や弁当に欠かせない脇役。母は旧大門町の農家の生まれだから、塩加減は実家仕込みだろう。

 

 とにかく、しょっぱくて酸っぱい。一粒あればご飯をお代わりできる。「日の丸弁当」とは単に見た目ではなく、真ん中に梅干しさえあれば白いお米を全部平らげることができる弁当を言う。今思えば、庶民の貧しさが育んだ食文化である。時代と共におかずは多彩になり、外食が増えた。梅干しは買うものになり、塩分控えめで味の角が取れていった。

 

 グルメサイト「食べログ」で不当に評点を下げられ客が激減したとして、焼き肉チェーン店がサイト運営会社に損害賠償を求めた裁判で、このほど東京地裁は訴えを認めた。ネット社会を象徴する判決である。

 

 ふと、おいしさとは何かを考えた。グルメサイトの評価が影響力を持つ一方、一人ひとりが大切にする味は点数化できるはずもない。スーパーに行くと梅が並んでいる。今年は漬けて、角の立った味に挑戦しようか。

 

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 新聞という<オールドメディア>に書く文章とブログにつづる文章は、書き手としては否応なく全く違う意識の土台に立ちます。

 新聞は読者にお金を出して買っていただく商品であり、また一般の人が知り得ない事実(例えば汚職のような不正)を取材によって広く伝えるという、社会的な役割が基本にあります。記者といえど一個人の勝手な思いに終始する文章は許されない、というか出発点において問題外です。

 記者の「個」の思いを、ある程度事実に重ねて表出できるとすれば、連載記事やコラムです。ただし、記者として「個」について記すことは実はとても怖いことです。もし独りよがりに陥っていれば、読むに耐えない記事であっても、本人はそのことに気づかないからです。

 一方で、連載やコラムであえて記者の「個」を明らかにすることは、読者の共感を得るための強力な武器にもなります。新聞紙面に載せる記事に関して、この境目はとても悩ましく、永遠に「これならok」という基準は決められません。

 昔は若い記者に対して「コラムで思いを書きたいなら、プロのストリッパーになれ」と言っていました。「自分を晒すなら、プロとしての見せ方がある。素人がぎこちなく服を脱いだって、読者は気持ち悪いだけだ」と。

 ああ、今の時代なら完璧に『アウト』の発言ですね。

 もちろんこれは新聞というオールド・メディアの中のことであって、ブログの世界には違う価値観と面白さがあるのは言うまでもありません。

 「素人がぎこちなく服を脱ぐ」という下品なフレーズを言い換えれば、「普通の人が日々の思いを一生懸命素直に表現する」であり、そこに共感して価値を見出すことに、ネットが創り出した社会の新しさと意味があります。

 さて、古巣の新聞に週1本、3年間コラムを書いてきましたが、今日掲載の原稿が最後でした。終わりくらい個人的なことを書いてみようかと、梅雨にひっかけ、時代の変遷とネット社会への視点の広がりも意識しながら、母を題材にしました。

 それにしても、梅雨とは思えない猛暑のきのう、そして今日です。