ことばを食する

くーの、極めて私的な読書覚え書き。誰かにお薦めできると思った本を取り上げます

心の闇に埋もれたもの 憎悪か愛か 〜「この世の春」宮部みゆき

 人の心の闇、しかも生きるために自分で封印した記憶の闇であるなら、ほんとうは触れずにそっとしておくのが一番かもしれません。しかしその闇を抱えるがゆえに、狂気との瀬戸際に立つ本人が死に向かっていると分かれば、そうもいきません。苦しむのが純真で、セレブで、優れた頭脳を持つ美男子ならなおさらです。特に純真で、有能で、思いやりのある女性は、そんな男を見過ごせるはずがありません。

 ところが男の記憶の闇は、一つの村を消し去るほどの惨殺や、相次いだ子供の神隠しという、とんでもない過去の闇に繋がっていきます。「この世の春」(宮部みゆき、新潮文庫)のこの展開の大きさ、久しぶりに「宮部さん、パワー全開か!」とうれしくなりました。

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 世は江戸時代、ところは下野(しもつけ・現栃木県)の小藩となれば、宮部さん得意の時代物。若き藩主解任と、権力を握っていた御用人頭一派の切腹、自害、斬罪という政変で幕が開きます。

 始まるのは生粋のサスペンス・ミステリー。御霊繰<みたまくり>という霊魂と交わるサイコというか超能力者も加わり、一人の心の闇が、多くの心の闇とからまり、とんでもない過去の惨事の数々を明るみに出します。個と社会と、二つの闇が深まりながら結びついて、どこまで広がるのか分からないところがすごい。

 わたしは若殿の後釜に、担ぎ上げられて座った殿様が途中から一番胡散臭いと思いましたが、そこは作品で触れられるか否か。う〜ん。これ以上は中身について書くわけにいきません。人の弱さと強さが描かれ、最後に勝つのはとちらなのでしょうか。

 宮部さんの「作家生活30周年記念作」として刊行された後、新しく文庫になりました。宮部さんの円熟期の傑作だと思います。昔、宮部作品を読むたびにわくわくしました。人の寂しさを描いて、自己破産、超能力、近親相姦(子どもの虐待)など次々に新しいテーマが現れ、かと思えば時代物に舞台を移して、そこにも寂しさゆえの悲喜劇があり。

 「この世の春」は、そんな様々な要素が絶妙なバランスで周到に配されています。ああ、そうと分かっていれば単行本の新刊時に真っ先に読んでおくのだった!。

 満足すると、いや満足するに違いないと確信した時点で、祝杯をあげるのがわたしの癖です。というわけで、下巻の途中からビールを飲み始め、今は焼酎を飲みながらこれを書いている次第です。申し訳ありませんが、美味しい。