「詩」とは、どんな表現形式なのでしょう。そもそも「詩」というものを、どのように定義すればいいのでしょうか。
散文に対して、韻文があります。しかし韻律に則った言葉のつながりだけが詩かというと、そうではありません。極端な話、散文詩もあるわけですから。言葉の形式から詩を定義することは不可能です。かといって、書かれた中身で詩を定義することも乱暴でしょう。叙情的な詩もあれば散文もあります。
私がもっとも詩の定義に近いと思うのは、大岡信さんの文章に出てくる、次の一文です。
詩はもともと、他の言葉で言いかえ、パラフレーズすることのできないものとしてあるからこそ詩だ。
つまり解釈や解読ができず、書かれてただそこにあることで完結し、しかも存在感を伝える言葉の塊。それが「詩」だと言うわけです。わたしは激しく頷くのですが、一方で同じくらい、困ってしまう。解釈も解読も拒まれ、言いかえもきかないとしたら、好きな詩の魅力をどう他の人に伝えたらいいのでしょうか。
どうしようもないので、極めて解釈困難な詩を一つ、放り出してみます。
位置
しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
左でもない
無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
確かに、読み手の安易な解釈を、詩の側がはね返す感じです。いったい、これはなんだ? 理解してもらえなければ書く意味ないだろ??。そう思って当然です。無意味なものは、無視しなければ時間の無駄。なのですが....
わたしはこの詩を読んだとき、言葉をどう消化すればいいのか分からないまま、しかし読んだ瞬間に打ちのめされたのです。骨太で、意味という贅肉をそぎ落とした骨格だけの詩。1行1行、他の言葉で置き換えたり解釈されることを拒んで、ただそこにある詩。そして寡黙な男の大きな背中と肩が、心に浮かびました。それは解釈ではなく、言葉に触発されたイメージでした。
「石原吉郎全詩集」(花神社、1976年)から伝わってくるのは、取り返しのつかないものを断ち切らざるを得なかった人間の、一生を通した静かな潔さです。戦後、シベリアに8年抑留された過酷な体験を知ったのは、作品を読んだ後のことでした。
取り上げた「位置」は、石原さんの処女詩集「サンチョ・パンサの帰郷」の冒頭に置かれた詩です。石原さんの詩人としての最初の一歩に、いかにもふさわしい。
結局、散文は言葉の論理に従って書き、意味を伝えますが、詩は感性の論理で言葉を積み上げるため、しばしば論理的な読み込み、解釈が不可能になります(特に戦後詩と言われるジャンル)。だから言葉の塊をそのまま受け止めて、書き手の感性の論理に共振できなければ、ちんぷんかんぷんです。書き手の責任でも、読み手の責任でもなく、単にそういう問題です。
いきなりふつうの話になりますが、日常生活の中で石原さんに感謝することが一つあります。それは、断定することの、強さと潔さを意識できたこと。石原さんの詩は、紹介した作品でも分かるように断定する言葉で成り立ちます。
ない。のだ。せよ。である。
日ごろ使う「〜と思う」「〜ではないか」「〜の感じがする」などの言い回しは、相手への思いやりに根ざした日本的な言い回しですが、しばしば、断定を避けることで巧妙な自己責任の回避にも使われます。無意識のうちに、自分でも使ってしまいます。断定は、責任回避のずるさを自らに禁じる語法です。
必要なときには、曖昧さを排した言葉で語りたいと、石原さんの作品を読んで以来、心がけています。そんな言葉遣いは、人の基本的な姿勢につながると思うのです。