ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

特攻隊はこうだったのだろう 〜「孤塁 双葉郡消防士たちの3・11」吉田千亜

 10年前の2011年3月11日、午後2時46分18.1秒。この瞬間を境に、多くの人生はそれ「以前」と「以後」に決定的に分断されました。被災者でないわたしでさえ、めまいのような横揺れに驚いたあの瞬間からの数日、数週間、そして1年は忘れられません。

 東日本大震災の後、地震や津波への防災対策、またとりわけ原発の在り方について多くの意見や議論があり、出版物も数々刊行されてきました。災害から教訓を引き出すことは大切ですが、もっとも忘れてならないのは、あの時あの場にいた人たちの思いであり、痛みです。

 「孤塁 双葉郡消防士たちの3・11」(吉田千亜、岩波書店)は、歴史に埋もれそうになっていた地元消防士たちの姿を記録した仕事です。講談社・本田靖春ノンフィクション賞を受賞。文学賞のような話題にならないのは、仕方ないけどやや寂しいかな。

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 双葉消防本部は福島県双葉町、浪江町、大熊町など6町2村の自治体が共同で運営する消防組織。福島第一原発、第二原発を管轄内に持っています。

 吉田さんは2018年から消防本部や出先の消防署に通い、一人ひとりに会って、あの時のことを聴き取り続けました。

 大地震直後から、消防には救助や救急搬送の要請電話が鳴り続けます。住民を助けようと、必死に瓦礫の中を進む消防士たち。そこに今度は大津波が襲いかかったのです。

 彼らは全員、地元に家族を持つ父親や若者たちです。妻や子供、親の安否を気にしながら、連絡を試みる間もない日々が始まったのでした。瓦礫から救助しても、受け入れ先が見つからない。そこへまた「助けてくれ」という要請が次々に入りー。

 地震発生から1時間にもならない午後3時42分、消防本部は福島第一原発での異常事態発生を東京電力からのファクスで知ります。さらに1時間後、非常用直通電話から「十五条通報(原子炉をコントロールできない)」が入りました。

 夜、停電で真っ暗になった中、救助にでた消防士たちは、車のヘッドライトに浮かび上がるキラキラした粉の舞を見ます。

 「死の灰」。横山は思った。みんな「これはヤバい」と、うっすら思っている。でも、誰もそれを口にはしない。口にしても、降ってくるものを避けられるわけでもなく、川内村に移動しないわけにもいかない。たった1日前の、大地震と津波の後の世界が、いま、どこに向かっているのか、横山は、わからなかった。

 福島第一原発。当時、日本中が固唾を飲んだのは原子炉建屋で起きた水素爆発、自衛隊のヘリによる上空からの散水(17日)、駆けつけた東京消防庁のハイパーレスキュー隊の放水(18日)でした。

 しかしその前に、広く知られることなく、危険な原子炉建屋の消火や給水に立ち向かったのは双葉消防本部の消防士たちでした。

 東京電力から消防本部へ、原子炉冷却要請や火災の消火要請があったからです。しかも原発がどんな状況にあるのか、正確な情報提供がされないままでした。本書のカバー写真はその時、現場に向かう隊員たちです。

 出動するか、悩み、逡巡し、しかし消防士である彼らは立ち向かいます。

 雪が降る中、両サイドに職員が並び、敬礼する間を、車両が一台ずつ出ていく。松本は、出発のこの景色を決して忘れないだろう、きっと特攻隊はこうだったのだろうと思った。

 

 福島第一原発に最後まで踏みとどまった人々「フクシマ50(フィフティ)」は当時から各国のメディアで賞賛され、昨年は映画にもなりました。門田隆将さんのノンフィクション「地獄の淵を見た男」(PHP)では、その時の状況が生々しく描かれています。

 地元の消防士たちはそこに記されることのなかった、無名の戦士でした。

 刻々と変化する原発情報は、東京電力と政府の内部を行き交うだけで、双葉郡の消防士たちには全く伝わっていません。もし必要な情報が共有されていたなら、彼らは何度かの不必要な被曝を避けられたであろうと、さりげなく本書は指摘しています。

 原子炉だけでなく、東京電力や政府も自らのコントロールを失うメルトダウン状態にあったのだと、改めて思いました。

 もし、原発の暴走がなければ、自衛隊をはじめとした救助隊も被災地に入り、2日目、3日目に瓦礫から救い出せた命があったかもしれません。可能性が残されていたとき、一斉避難で双葉郡の被災地は無人になっていました。置き去られた命を数えることはできませんが、間接的な原発事故の犠牲者です。

 大震災から10年を経てまた1冊、こうした本が出たことにある種の感慨を覚えます。フリーライターの吉田さんに敬意を表しつつ、ひとこと。「受賞、おめでとうございます」。

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 それを浅はかな野次馬根性と言われれば、少しも反論できません。

 浪江町の立ち入りが緩和され、JR浪江駅が営業を再開したのは2017年春。

 同年秋、長い仕事に区切りを付けたわたしは、詳細な予定も立てず車で家を出て福島に向かいました。ニュース映像ではなく、自分の目で見たかったのです。

 この本に何度も出てくる浪江町に着いたのは2日目。

 浪江駅前で、大震災前の商工案内図に目が止まりました。古びた地図から、町のにぎわいが聞こえてくるようでした。(この写真は以前もブログで使いましたが...)

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f:id:ap14jt56:20210310171209j:plain 2017年10月撮影