ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

大災害と小さな新聞社の苦闘 〜「6枚の壁新聞」石巻日日新聞社編

 宮城県北東部の石巻市は、太平洋に面した人口13万6千人の市です。沿岸部は漁業や養殖、水産加工業が盛んで、北部にかけてリアス式海岸の複雑な地形が続いています。

 その石巻市で1912年(大正元年)に創刊され、石巻と東松島市、女川町をエリアに読まれているのが夕刊紙・石巻日日(ひび)新聞です。wikiによると部数1万8千、月額購読料1800円で従業員24人。

 宮城県は仙台市に本社を持つ河北新報(部数45万)があり、朝日や読売といった全国紙も入り込んでいます。夕刊単独の石巻日日新聞はその中で、1世紀以上にわたって読み継がれてきた地域メディアなのです。

 「6枚の壁新聞 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録」(同新聞社編、角川SSC新書)はタイトルが示す通り、大災害に直面した小さな新聞社と6人の記者たちの苦闘のドキュメントです。

 2011年3月11日、社屋は倒壊を免れましたが、その後街中まで押し寄せた津波で新聞を印刷する輪転機が使えなくなります。家族の安否を心配しつつ、記者たちは大きな揺れが収まると取材に散りました。

 電気が途絶えてテレビはつかず、携帯も不通。避難所に続々と集まる人たちは、生活物資の不足に加えて情報隔絶の中にありました。そこへ情報を届けるのは、まさに地域紙の使命です。

 ところが断片的な情報が輻輳し、何とか記事にまとめても輪転機が動かない。彼らがやったのは、印刷前の新聞用紙をロールから切り取り、油性ペンで手書きする「壁新聞」作りでした。取材が終わると手分けして同じ壁新聞を何枚も書き、主な避難所に走って張り出しました。

 本の冒頭に、大震災の翌3月12日から17日までの実物写真が収録してあります。16日の壁新聞を例に挙げると、記事は2本。

 トップの見出しは「支え合いで乗り切って 全国から激励のメッセージ」で、記事が紙面の4分の3を占めています。残る4分の1は「女川町5千人が安否不明」。

 通常なら記事の順番、ニュースの価値判断はこの逆です。小さな町で5000人もが安否不明となれば、本来それだけで世界を駆け巡るトップニュース。しかし、その常識は非常時にも正しいのか。

 「支え合いで乗り切って」と最初に見出しを打った紙面からは、地域に生きる新聞社として、避難所の住民を励まし、希望を届けたいという姿勢が伝わります。

 災害は規模が大きいほど被災地の中より、外の方がはるかに大量の情報を得ることができます。このころ、日々明らかになる被害の実態は想像をはるかに超え、主要メディアは制御不能に陥って水素爆発を起こた福島第一原発を刻々と報じて、日本中が明日の恐怖に突き落とされていました。

 さて本の中には、6人の記者の7日間の行動も一人ひとり記録されています。地震直後、河口を取材しようと車で海へ向かった記者は津波に飲まれ、漂流物につかまって流されます。翌朝、運よくヘリで救助された彼は低体温症で2日入院し、退院して遺体安置所の取材へ行きました。

 彼は壁新聞を「地元紙の使命を果たそうとした<意地>に、報道部の一員として誇りを感じる」と記しています。

 一般的に新聞であれテレビであれ、記者の仕事は派手なものではありません。地味で泥臭い取材や付き合いが大半を占めます。まして小さな地域紙の記者であれば、権力者を辞任に追い込んだり、世論を動かすキャンペーンを張る機会もそうそうないと思います。代わりに地域の一員として共に笑い、共に怒り、記事にする。

 しかし、震災から11年が過ぎた今も、彼らの壁新聞からは新聞というオールド・メディアの原点、「伝える」ことへの使命感が漂ってきます。