「私の消滅」(中村文則、文春文庫)を読んで感じたのは、「ああ、またおかしな所に連れていかれたな」という<気分>でした。かつては親しい感覚だったけれど、就職して働いて、稼いで、あくせくする歳月を長く重ねる向こう側に、置き忘れてきた遠い感覚。それは自分を取り巻く細々とした現実との距離感、または違和感。抽象的ですいません。
初めて読んだ中村さんの作品は「遮光」(新潮文庫、野間文芸新人賞)ですが、読み始めてすぐに思い出したのが、サルトルの「嘔吐」でした。文章から漂う中村さん独特の感覚は「私の消滅」を含め、他の作品にも共通する通奏低音です。
ちょっと具体的な説明を試みてみましょう..。例えば、
真っ暗な部屋の中に、一人取り残されたとします。外に出ようと、恐る恐る暗闇で壁を手探りし、壁面をなでてドアをさぐります。ようやくそれらしき凹凸を見つけ、腰の高さあたりにある突起物を握りしめます。その瞬間、無機質な冷たい何かが、ぴったり掌に張り付きます。
「よかった、ドアノブだ」と、何の迷いもなくドアを開ける人が大多数でしょう。しかし、ドアノブにすぎない掌の感触が、条件反射のようにおかしな違和感を告げたとしたら...。例えば、外界の敵意が凝縮したような冷たさとか、とんでもない何かを握りしめてしまった嘔吐感とか。
真っ暗な部屋は、一人の人間の内部でもあります。ドアノブは人間が外部とつながるための要です。反射的に違和感を感じた人は、なかなか面倒なことになりそうです。人間関係もですが、その前に、自分を取り巻く世界そのものと。(単なる比喩であって、何の科学的、医学的根拠もないわたしの勝手な推測です。念のため)
サルトルの嘔吐の「私」は砂浜で小石を手にします。ただの小石、それ以上でもそれ以下でもありません。ところが「私」はこう認識します。
手の中にあったいわば嘔吐のようなもの
「私の消滅」の「文庫版のためのあとがき」で、中村さんはこう書いています。
人間とは何か、この世界とは何かという問いはぼくにとってーー多くの作家にとってーー大きなもので、この小説でもまた、そのことを表現することになった。
なぜその問いが僕にとって大きいのかは、振り返れば小さい頃に、この世界をあるがままとして素直に(つまり馴染むものとして)受け止めることができなかったから、という理由もあるのかもしれない。
何だか前置きが、メーンのような長さになってしまいました。「私の消滅」は心療内科の医師を主人公に、ミステリー仕立てで「ある人間」の内部に入り込んでいく作品です。「ある人間」がだれかは、小説としてのキモになるので書きません。
記憶の一部が欠落したゆかりという美しい女性、幼女連続殺人で死刑になった宮崎勤の心理分析など、読ませどころもしっかり用意されています。繰り返せば、主人公にとって世界が 馴染むものとして 存在しないという通奏低音が、静かに鳴り続けています。
しかし、こんなふうに、根本に骨太なテーマを持った作家は、いま少ないなあ。