ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

江戸の「景色」に遊ぶ 〜「鬼平犯科帳」池波正太郎 その2

 師走のころから立春を過ぎたここまで、大きなエネルギーを注がざるを得なかった仕事にようやく一区切り、一息ついて、さてどうしようかと、焼酎お湯わりを舐めていた昨夜、手にしたのは「鬼平犯科帳」(池波正太郎、文春文庫)の16冊目でした。

 このシリーズ、文庫で全24冊。昨年秋に古本でまとめ買いしたのですが、読んでいる途中から心と時間の余裕がなくなって中断していました。その間に読んだ別の本もあれば、新しく買って積読のままの本もあります。しかし、久しぶりにほっとしたとき、どうして「鬼平犯科帳」の再開だったのか。

 鬼の平蔵こと、江戸の火付盗賊改方・長谷川平蔵が、悪だくみに挑む捕物帳を読んで手軽なカタルシスを味わいたかったのか?。酸いも甘いも知った平蔵の正義感と、人間臭い盗賊たちの暗闘にわくわくしたかったからか?

 まあ、どれも確かなのですが、もっと根本にあったのは違う景色の中に入って違う風に吹かれたいという思いでした。わたしにとって池波小説の魅力は軽妙なストーリーだけでなく、江戸の街並みや気候が眼前に立ち現れ、肌に触れてくることです。

 

 金太郎は、ひょろ長い躰を屈めるような歩きぶりで、品川宿を出ると東海道を高輪へ出て、大木戸から田町へかかった。

 芝・田町七丁目の往還の西側に、三田八幡宮がある。この神社は惣鎮守であって、草創は寛仁年間というから、まことに古い。

 物の本に...(中略)とある。

 拝殿の正面に三十余段の石段があり、これを下ると広場になってい、中央には大鳥居。外へ出ると街道に面して、左右に茶店が軒を連ねている。

 稲荷の金太郎は、その茶店の一つの、大黒やというのへ入っていった。

 (中略)

 彦十は、大黒やの筋向かいにある上総屋という蕎麦屋へ入り...

                         (「見張りの糸」から)

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 一読して思うのは、固有名詞の多いこと。しかもストーリー展開にさして意味のない八幡宮についてまで、具体的に記述を費やしてあります。時代小説がリアリティを得る手法として、要所要所に意図的に昔の地名などを置くことはありますが、ここまで極端な書き方は<池波節>という気がします。地名に限らず

 「その茶店の一つ」だけでなく「大黒や」。「筋向かいにある」単に蕎麦屋ではなく、具体的に「上総屋」。

 ストーリー展開の面白さを追いかけ、読者を引き込もうとするなら、過剰な(話の進行に不必要な)固有名詞は、むしろ障害になります。ところが「鬼平犯科帳」を読むとそれらが所々実に効果的に、舞台の前後にある大道具、小道具のように生きていて、なんとも見事な職人技です。

 そしてふと、鬼平が見上げた涼やかな秋の空に鳥が過ぎていく。こうした空気感に心休めたくて、昨夜は「鬼平犯科帳」を手にしたのでした。

 

 時代小説でわたしがそれなりに読んだのは、池上さんのほか藤沢周平、浅田次郎、宮部みゆき、あさのあつこさんくらいでしょうか。本物の歴史・時代小説マニアがどれほど凄いか、少しは心得ているつもりなので偉そうに言えないのですが、人情、悪や罪といった人間の属性を離れ、江戸の景色や庶民のざわめき(「剣客商売」ではこれに加えて素朴な食べ物の魅力)をさりげなく伝えることにかけて、池上さんが断然トップだと思います。

 さて、私にとって鬼平の捕物帳は、今しばらく続きます。

                   

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