ことばを食する

本たちとの、出会い、すれ違い、言葉との恋愛。つれづれなるまま記していきます

愛すなわち詩 〜「エリュアール詩集」ポール・エリュアール

 翻訳で海外の詩を読むのは、じつは微妙な体験です。取説のような文章はさほど問題ないにしても、文学書、特に詩ともなれば、翻訳者の感性というフィルターを通して日本語化されるからです。しかし辞書片手にフランスの詩に立ち向かっても、ネイティブに近い語学力がない限り、頭の中でたどたどしく日本語に置き換えるだけです。それなら優れた翻訳者にゆだねた方がよほどよい、となります。

 まあ、バッバのような作曲家と、演奏家または指揮者の関係みたいなものだと考えることにしています。わたしにとって、詩と翻訳者のすぐれた出会いといえばまずランボーと小林秀雄。「地獄の季節」そして「ランボー論」から、わたしは小林秀雄という知の巨人の森に踏み込みました。

 それ以上の組み合わせがあるとすれば、ポール・エリュアールと安東次男を挙げます。安東自身が翻訳者であり詩人、そして一流の批評家ですから、「エリュアール詩集」(安東次男訳、思潮社)は、翻訳と言うより安東とエリュアールの敬意に満ちた真剣勝負です。

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 さて、すべて紹介できないのでごく一部。

 「愛すなわち詩」は、スイスのサナトリウムで出会った、うぶな文学青年・エリュアールと一人の文学少女の、なれそめから破局までを82篇で編んだ組詩です。組曲でなく、組詩という言葉に市民権があるのか分かりませんが。

 ちなみに「愛すなわち詩」は、安東のフィルターを通した訳です。忠実に日本語にすれば2つの言葉「愛 詩」となります。

 

 一つ接吻するたびに

 目隠しする手が剥がれた

 初めて恋人とキスし、その日から一つ一つ目の前に新たに広がっていく愛とエロスの世界。初々しいなあ〜という詩篇が、前半を占めます。

 ところが、少女はやがて破天荒な画家と知り合い、エリュアールから心が離れていきます。悲嘆。ついに彼女が去ったとき、エリュアールは静かにこう書きます。

 これ以上なにも見ないようにぼくは目を閉じた、

 ぼくは目を閉じた すると涙が出た

 もうおまえを見ないのだと思って。

 大昔、彼女にふられて、わたしは何度もこのフレーズを暗唱したものでしたww。

 さて、エリュアールをふった少女は、名前がガラ。ガラは、エリュアールの親友であるサルバドール・ダリのもとに走り、妻となります。ガラはダリにとっても、長く創造の源泉となりました。

 「愛すなわち詩」に添えられた、エリュアールの献辞が胸に痛い。

 終わりなきこの本をガラに