今年の本屋大賞はちょっと肌触りが違うようだ...と、受賞作紹介文で思い、本屋さんではタイトルとカバーイラストにやや尻込みしたけれど、やっぱり買うことにして、読み始めれば「うん、悪くない」と何度もにんまりしたのが「同志少女よ、敵を撃て」(逢坂冬馬、早川書房)でした。
本屋大賞受賞の作風に共通点を指摘するほど詳しくないのですが、個人的には<女性読者をターゲットにした軟派系作品>が近年の印象でした。
ところが「同志少女よ、敵を撃て」は、第二次世界大戦の独ソ戦を舞台にした異色作。戦争という巨大な歴史のうねり、翻弄されるソ連の若い女性狙撃兵たち(実在した!)の生と死を描いて、個を突き抜けた視点へと読者を連れて行ってくれます。
これ、直木賞でもいいと思う。
ソ連の山間の寒村に暮らす少女・セラフィマ。成績優秀で、村から初めてモスクワの大学に進学することが決まっています。同時に少女は母から猟を教わり、鹿を撃つことにかけては誰にも負けません。
戦争が始まり、そんな日常は村に押し寄せたドイツ兵によって突然断ち切られたのです。村人たちを襲う理不尽な惨殺劇。だた一人生き延びた日から、復讐を誓う、いや復讐にしか生きられなくなった少女の物語が始まります。
戦闘と膨大な兵士たちの死。ソ連へ攻め込んだ、次にドイツへ反攻した、双方の国の戦争犯罪と女性たち。これが戦後、男たちの論理によっていかに埋没していったか。
男の兵士を圧倒する女性狙撃小隊の一員、セラフィマという個の視点で戦闘を描きながら、彼女は客観的な国際関係の史実の中に位置付けられて、過酷な現実を生き抜きます。見方を変えれば、この小説の真の主人公は<歴史>であるとも言えます。さて
「同志少女よ、敵を撃て」が発表されたのは、ロシアによるウクライナ軍事侵攻が始まった前です。しかし、今この作品を読めば、意識しなくてもそこに思いが及びます。そして、自分のいろいろな認識の甘さに気づくのです。
例えば、ロシア国民は独裁者プーチン大統領によって情報遮断されているからウクライナ侵攻に反対する世論が大きく形成されないのだ...という認識。これが誤りだとは思いませんが、100パーセント思い込むのも問題です。「白か黒」しかない、安易な思考回路に陥っている危険があります。
第二次世界大戦の独ソ戦において、ウクライナ(当時はソ連の南部地域)もまたヒトラー率いるドイツ軍との激しい戦場でした。ソ連南部であったウクライナの国土と市民はナチスドイツの軍に蹂躙され、ソ連は何とかこれに反撃して勝利したのです。
この激戦を含む対ドイツ戦は、<祖国防衛神話>になりました。その後長く共産主義の暗い社会を生き抜いたソ連、のちにロシア国民にとって、唯一の、だれもが共感できる<神話>でした。その神話の続編を今、プーチン大統領は国民向けのプロパガンダとして展開しているのです。
独ソ戦の現実を知らないわれわれと、特に年配世代のロシア国民が、同じ感性でプーチン大統領の歴史ストーリーを聴いているはずはありません。
一方、ウクライナ国民にとっては、ロシア革命の後にソ連の強権によって一方的に衛星国家にされ、虐げられ、次はナチスドイツという狂信国家に攻められ、ソ連崩壊でようやく真の独立国家として歩き始めたところに、今回の軍事侵攻でした。
歴史認識とは、それぞれの国家主観によって千差万別に語られる<歴史物語>であり、それは西側諸国や日本、中国、韓国なども同じです。そんな当然の事実を、気づかせてくれる小説でもありました。
そして否応なく、戦争という個を超えた激動に巻き込まれたとき、人は何を拠り所に生き抜き、その後にはどんな生き方が許されるのか。読者はページをめくりながら、少女・セラフィマとともに悩み続けることになります。