ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

哲学は面白い 〜「暇と退屈の倫理学」國分功一郎

 個人的なことながら、わたしが恐れるものの一つに「退屈」があります。これはもう、子供のころからそうでした。退屈という状態のなんとも表現しにくい不快感、あるいは心の疼痛。薬物中毒者の、薬物が切れた状態みたいな感じなのかも。

 わたしは(たぶん多くの人は)退屈したくないから、熱中できるもの、せめて退屈から逃れられるものを探し続けます。そのためには、苦しいだけの忙しさにさえ身を投じる。今のわたしなら、読書や絵を描くことも退屈からの逃避術なのです。

 ふり返れば、ささやかなわが個人史は退屈を追いやるための闘いであり、裏を返せば快楽=性的な意味はほぼありません=を追い求める闘いでもありました。ちょっと大袈裟だけれど。 

 わたしにとって退屈は、小学生3年か4年くらいのある記憶と結びつきます。母が里帰りするとき、母の実家に泊まることはいつもわたしの大きな楽しみでした。ささやかな、日常からの脱出。ところがその日の午後、わたしは遊び相手もいない母の実家で退屈している自分をふと発見したのです。

 所在なさそうなわたしに、祖母(母の母)が問いかけました。

 「どうしたの」

 「暇だもん」

 祖母がどう答えたか覚えていません。何か諭されたような気もします。ただ、子どもが初めて自覚した行き場のない心の気だるさと、祖母の悲しそうな二つの目だけが記憶に残っています。

 

 「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎、新潮文庫)は、暇と退屈という視点から人間の本質に迫る試みです。哲学書を面白いと思ったのは、何十年ぶりだろう。そして小さな出版社から出た哲学書を、文庫にラインナップした新潮社文庫編集部の蛮勇にも感謝です。いや、そんな名称の部署なのかどうかは知りませんけど。

 人はなぜ退屈するのか。退屈とどう向き合い、いかに生きるべきか。そもそも退屈とはなにか。人以外の生き物に退屈はあるのか、または退屈という状態を自覚できるのだろうか。

 ルソー、ハイデッカー、ボードリアールらそうそうたる哲学者の論を検証・批判し、文化人類学や歴史学、さらにマルクスら経済学や社会学の視点を取り入れた広い視野の中で、退屈という現象が考察されていきます。

 いくら科学技術が進んでも人が信仰を棄てられない理由、ときに過激な思想や宗教に魂を委ねる背景さえ分析されていて、説得力がありました。こう書くと難しそうですが、哲学書では例のないほどのやさしい語り口が印象に残ります。

 人間とはなにか、世界とはなにかを問い続けることが、延々と続くの哲学の営みであるとすれば、この論考はユニークで意表をついた視点からの「倫理学」です。もちろん読んだからといって、明日から具体的になにか生活の役に立つわけではありません。そもそも、読んですぐに役立つ本に、大したことは書いてないのです。