1冊の本からなにを読み取るかは、読んだ人に委ねられています。そこに宝の山があっても、両手の10本の指で掬えるだけしか持ち帰れません。ただ、作者が予想もしなかった宝物、本来そこになかった宝を持ち帰るのも読書の面白さです。
そんな当たり前のことを、改めて思いました。本に限りません。音楽も、同じ演奏を聴いて心にどんな景色が広がり、何色の感情が音色とともに沁みていくかは聴衆それぞれです。
すると、本のレビューを書くのが怖くなりました。わたしが作品について書くことは、小説という言葉の塊から10本の指でわたしが持ち帰ったわずかなもの、自分の狭さを露わにすることだからです。
また同時に思いました。この小説を読んだ人の10本の指は、わたしが思い及ばなかったなにを読み取るのだろう。無限にあるそれを聴いてみたい...と。
「スピノザの診察室」と続編の「エピクロスの処方箋」(夏川草介、水鈴社)の2作を読み、頭に浮かんだのは作品の内容とは直接関係しない、とりとめもない想念でした。自分はこの小説からなにを汲み取ったのだろう、汲み取ることができたのかという漠然とした不安。

簡潔な小説です。生きるとは、死とは、つまりいのちとはなにか。そして幸せはどこにあるのか。
小説として心に残る舞台や大道具小道具は、いろいろ詰め込まれています。街中の病院が日々直面する老いと、死に至る病気、看取り。大学病院の最先端医療の現場、熾烈な権力争い。連携して難病に立ち向かう医師たちの姿。医療小説であればどれもよくある設定です。
でも、心に残るのはそこではありません。どれほど医療が病気を克服しても、一時のこと。人である限りみんな死にます。
観光客であふれる京都の、観光客には見えない狭い路地の奥にある骨董屋、ボロアパートなど、病を得て死を待つだけの人びとの姿が鮮明です。治癒を目的とした治療はもう選択肢がなく、定期的に訪ねるだけの訪問医の心が、悲しいけれど清々しい。
彼は若くして大学病院を去り、日常的に最先端医療の現場に立つことはないけれど、内視鏡手術の天才でもあります。
2作を2日で一気読みした後、深く息を吸って思いました。いろいろ読ませるドラマが小説の中に仕掛けてあっても、つまり「これは簡潔な小説だ」と。ただ真っ直ぐに、いのちはどうあるべきかを問いかけてきました。
いのち(=死への過程)について、あるべき姿として美しい総論を語るのはたやすい。しかし人それぞれの各論が現実であり、各論がきれいすぎる総論と重なることはほぼ、ない。事実を直視すれば、医学は哲学に救いを求めるしかありません。そのことが、小説のタイトルに反映されています。
自分を省みるなら、ちっぽけな人間なりに悲しくも清々しく死を迎えたい。思い描いた通りに死ねる人なんて、めったにいないのだろうけれど。

