ドイツ文学者の中野京子さんが、独特の視点で名画を解説した「怖い絵」という本がシリーズ化(角川文庫)されています。わたしは未読ですが、「怖い絵 泣く女篇」を書店で手に取ったことがありました。カバーに使われている絵が印象的だったで、その章だけざっと立ち読みしたことがあります。本屋さん、買ってなくてごめんなさい。

そして、話はナショナル・ギャラリーにとびます。ロンドンの観光名所と違い、平日はそれほど混んでいません。ゆっくりの絵画鑑賞にストレスフリーです。

写真の部屋は奥まで、中世からルネッサンス初期に至る作品群。イギリスの作品は少なく、イタリアなどの絵画が多い。宗教的な、具体的にはキリスト教に関連する絵画が大半で、ルネッサンス期に入るとギリシャ神話を題材にしたものが現れます。

ギリシャ神話です。「ヴィーナスとマルス」(ボッチチェリ、板にテンペラと油彩、1485年ごろ)。横が173.4cmあるのでけっこう大きい。
満足そうに男を見つめている左の女性が、美神ヴィーナス。右の疲れ切って寝落ちしているのは軍神・マルス。ヴィーナスは半透明のドレスの描写が見事でした。他方マルス、激しい戦いで難敵を打ち負かして帰還し、よほど疲れたのか?
いえいえ、違います。
これは女神と男神のセックスのあと。マルスはそのせいで消耗したのです。美術館の解説によれば「情交により男は消耗し、女は元気づく」というのがルネッサンス期に流行した考え方なんだそう。
解説が秀逸なのはこの続きで「make love not war(戦争するよりセックスしよう)という、1960年代のヒッピーの反戦スローガンは時代を問わない」。思わす笑い、現代のいくつかの国の大統領やトップに、この絵を見せたくなりました。戦争や権力争いで血を流すより...と。
主要な作品についてこうした解説を書いたのは、エリカ・ラングミュアという美術史学の教授で、美術館教育部門の主任だった女性です。もう、亡くなったらしい。
そして順番に時代をたどっていくと、やがてこの絵に遭遇します。


迫力がありました。筆跡を残さない、古典的なプロの技にほれぼれし、光の当て方はまるで映画の1シーンのよう。「レディ・ジェイン・グレイの処刑」(ポール・ドラロッシュ、キャンバスに油彩、1833年)
1554年2月12日に起きた英国の史実を、フランス人画家ドラロッシュが280年後に再現した歴史画です。ジェイン・グレイの処刑の実際がどうであったかは、もちろんだれにも分かりません。
華やかなドレスを脱がされ、下の白い衣装だけになったジェイン・グレイ。彼女はわずか17歳でイングランド女王に戴冠させられましたが、その9日後に反対勢力の謀略で大逆罪に問われ、死刑を宣告されました。
彼女が左手を伸ばしているのは断頭台。ここに、頭をおけばいいの?。寄り添った男は、少女にいったい何を言い含めているのか。右の赤いタイツの男が手にした大斧が、まもなくジェイン・グレイの細い首に振り下ろされます。処刑が行われたロンドン塔。

絵を解説するエリカ・ラングミュアは、美術館で人気の作品の一つでありながら「私自身はこの絵があまり好きではない」と書いています。「かよわき女性の賛美であるのが気に入らない」と。
この絵を、男の権力争いによる殉教者のような、かよわき女性の「賛美」ととらえるかどうかは微妙なところだと思うけれど、考えるほどに難しい...。
軍神・マルスを眺める余裕の表情のヴィーナス。そして処刑されるジェイン・グレイ。わたしの記憶に残ったナショナル・ギャラリーの、2人の女性でした。

