ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

花のしたにて 春死なん  〜「西行花伝」辻邦生

 世の権力が貴族から武士へ移る激動の時代、若くして出家し、歌人として生きたのが西行でした。「西行花伝」(辻邦生、新潮社)は、その激動の一生を描き出します。

 西行が繰り返し自らに問い続けるのは、「歌とはなにか」ということ。歌を「芸術」と置き換えて読んでも差し障りないと思います。芸術とはなにか。浮世の厳しい現実に身を置きながら、なぜ人は歌を詠むのでしょう。そして歌の力、この世に芸術が在ることの意味が、小説のテーマになっています。

 

 平安時代末期は、土台となる律令制が制度疲弊し、地方では土地をめぐる騒乱が頻発していました。飢饉や自然災害が相次ぎ、釈迦の救いが遠のく末法思想が広がった時代でもありました。

 佐藤義清=のちの西行=は名門・藤原氏を始祖にする下級貴族の家に生まれました。佐藤家が地方に持つ知行地も、常に侵略の危機にさらされています。

 義清は武術や諸芸を学び、成人して院を警護する「北面武士」になりました。そこで彼は、鳥羽天皇の皇后であった待賢門院(たいけんもんいん)の美しさに衝撃を受けるのです。待賢門院もまた初々しい若武者を見初め、二人は密かに一夜限りの契りを結びます。

 ここで少し脱線。年表や資料を漁ってみると、このときの待賢門院は40歳前後のはずで、義清とは母と子に近い歳の差があったと思われます。また待賢門院と鳥羽天皇の夫婦仲は最悪。そもそも待賢門院は2代前の天皇が幼女の頃から育て上げ、溺愛した女性。鳥羽天皇の中宮(皇后)になってからも、男遊びが絶えなかったらしいのです。今度は若いお兄ちゃんをつまみ食いした...と、言えなくもない。

 ただし、小説では待賢門院の女性としての心の孤独に焦点を当ててあります。義清の方も、亡き母に対してマザコン気味の思いを引きずっていて、作中の二人の交わりは美しい。どちらにとってもこの一夜は、その後の人生の支えになるのです。

 北面武士として働き始めたことはまた、義清にさまざまな出会いをもたらします。短歌の師匠や歌仲間との出会い。そして同年代の同僚である武士・平清盛。清盛は、武家を牛耳る公家たちに冷ややかな目を向ける、優れて頭の切れる若者として登場します。

 

 ここまでは、まだ小説の序盤。その後20代半ばで義清は、突然、官職も家督も捨てて出家し、僧・西行になります。出家は、現世である浮世を捨てるのではなく、浮世の外に身を置くことで浮世を正しく見つめ、歌によって世界を変えようとする長い人生の始まりでした。

 時代の移り変わりを背景として、折々に歌人としての西行の苦悩に、作者は言葉を費やしています。西行は73歳まで生き、清盛を頂点とする平家の興隆と滅亡、鎌倉幕府の成立と奥州藤原氏の終焉までを目にして生涯を閉じました。

 在野にあり、あちこちの山中に庵を結び、また旅に暮らした西行の死は、宮廷歌人たちに異様な感動を巻き起こしました。当時を代表する歌人・藤原俊成(定家の父)が、死を悼んで記した感慨と、西行生前の歌が小説末尾に置かれています。

 願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃

 

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 <補遺>

 「西行花伝」は1995年に刊行され、同年の谷崎潤一郎賞を受賞。小説は藤原秋実という架空の人物が、師である西行の生涯を書き残そうと、生前の師を知る人を訪ねて話を聴く形式です。章ごとに、西行についての語り手が変わる一人称で構成されます。

 また小説の中にはしばしば西行の歌が引用され、現代作家による「歌ものがたり」のようにも読めます。

 実はわたし、短歌という定型表現が苦手で、あまり読んだことがありません。「源氏物語」でも、登場人物たちはさまざまに歌を詠み交わしますが、その部分を楽しむ才に欠け、もっぱら物語の進行を追った記憶があります。

 今回はこれも一つのきっかけと、西行の歌集である「山家集」(新潮日本古典集成、後藤十郎校注)を手元に置き、小説に歌が出てくるたびに索引で歌を探して参照しました。少しは短歌に慣れ親しむことができたかどうか...。もちろん、小説は短歌への造詣を抜きにして、十分楽しめるのですが。

 わたしが「歌」にこだわったのは理由があります。

 日本最古の歴史書である「古事記」や「日本書紀」で、スサノヲノミコトなど神々が、折々に歌を詠むのです。出てくる歌すべてが厳密に31文字の短歌ではありませんが、これは軽い驚きでした。

 太古の神話時代にすでに歌を詠み、吟じていた(文字のない時代なので、書き残すことはできず、口伝のみ)。言葉は直接的な意思伝達の道具としてだけではなく、移ろう心の一瞬を、形にして残す歌心=詩心、芸術表現=の道具でもあったのです。

 こうした歌のルーツは、どこまで遡ることができるのだろう。縄文時代、さらに石器時代の日本人も歌(らしきもの)を詠んだのだろうか。そのころは歌というより、呪術や原始宗教と渾然一体になった言葉だったのかもしれないけれど。

 日本には言霊(ことだま)信仰があります。今も「縁起でもないことを言うな!」と諌めるように、言葉にしたことは現実になるという言い伝えです。言葉に霊的な力を認める古代からの感性。

 また言葉以外であれば、例えば縄文土器の華麗な装飾や土偶の造形も、芸術的な意思なのか、呪術的な意味表現なのか、考え始めるときりがなく、明確な答えはどこにもありません。

 これらは芸術とはなにであり、なぜ人は生きるために芸術を必要としてきたのかという、根源的な疑問に直結します。

 歌に話を戻せば、奈良から平安時代にかけて31文字の短歌になり、やがて俳句も派生して現代に至ります。そんな脈々と受け継がれてきた日本人の詩心をごくふつうに楽しみ、親しめない自分が、ちょっと残念なのです。

 ちなみに江戸時代、西行にあこがれた芭蕉は旅に出ました。そして生まれたのが名作「おくのほそ道」です。

              

 

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