2、3カ月ごとに酒を飲み交わす仲間たちがいて、先日は「暑気払いに焼肉!」というお題で声がかかりました。わたしが現役のころからの飲み会なので、もう10年以上続いています。
メンバーは50代から60過ぎで、かつて在籍した会社の後輩ではないけれど、仕事を通じてできた集まり。各自、会社は違います。この10数年の間に、取締役に昇進した熱血男子や、女性取締役になった郷ひろみファンがいたりで、わたし以外は全員現役です。みんな地方の中小企業なんだけどね。
唯一、暇なじーさんのわたしは、開始3時間も前から街中に出て、大型書店とBOOK・OFFをはしご。年金が頼みのじーさん、書店はゆっくりチェックしただけで、BOOK・OFFで200円の文庫本をゲット。たまたま目に入った、ちくま学芸文庫の「日本の歴史をよみなおす 全」(網野善彦)という1冊でした。
時間までタリーズコーヒーで買った本を読もうというのは、予定通り。で、この本、アタリでした。
第1章「文字について」から「貨幣と商業・金融」「女性について」など、さまざまなテーマを提示し、古代からの通史の中でとらえる試みです。まだ読了前ですが、全部で10章の構成。
わたしたちは日常、漢字交じりの平仮名を使い、外来語など一部にカタカナを使用しています。その使い分けは、なぜそうなった?
そもそも弥生時代半ばまで、この国(当時は、倭=わ=と中国で呼ばれた遥か東方地域)に文字はありませんでした。少なくとも、文字が刻まれた弥生以前の出土物はありません。ただ弥生後期になると、卑弥呼は中国の魏王朝に使いを派遣し、金印と返書をもらったはずなので、この段階で漢字がもたらされたは事実はあると思われます。普及したかどうかは別として。
400年ほど後の奈良時代には、すっかり漢字が定着していたけれど、いわゆる「万葉仮名」です。これ、日本語を表記するために、漢字の発音・音韻だけを借用した書き言葉でした。例えばきれいに咲いた、hana(花)という話し言葉・音韻を文字に記すために「波奈」という漢字を当てました。
古典文学全集とかにある「万葉集」は、読みやすく現代の漢字かな交じり表記に書き直してありますが、白文の原典は万葉仮名(=漢字のみ)で、とても読めたものではありません。漢字の「意味」ではなく、音韻を日本語の話し言葉に当てはめて、書き言葉にしてあるのだから。むしろ意味を類推できる純粋な漢文の方が、理解しやすいかも。「古事記」「日本書紀」しかり。
わたしが学生のころ、早稲田の古本屋で「白文萬葉集」という岩波文庫を見たことがあるけれど、当時でさえ絶版で、かなり読み込まれてぼろぼろでも高価な値付けでした。昔の国文学の学生は、白文で読もうとしたんだろうなあ。だから文庫にもなってた。
さて、みなさんご存知のように、真面目に音韻に漢字を当てはめていては大変過ぎるので、漢字を簡素化した仮名が生まれました。ようやく、日本語の書き言葉がやさしくなって、革命的な自由を獲得した!。
しかし、漢字が消えることはなく、音読み訓読みの使い分けがなされ、現代も仮名に交じって使われ続けています。仮名も、平仮名とカタカナの2種類が生み出されて使い分けられました。こんな複雑な言語は日本語だけではないでしょうか。(アルファベットはたった26、もしくは24文字...)
ここまでは、日本語のざっくり通史です。 第1章「文字について」では、「なぜ?」という問題提起がされます。古文書を通観すると、平仮名は短歌や平安女流文学をはじめ広く使われ、一方のカタカナは仏教など宗教関連、もしくは役所などお固い文書でよく使われたそうです。
仮名文字の使い分けは、どうしてそうなった?。仮名が生まれても漢字を捨てることなく生かした日本人の柔軟性とは?。これらを問うことは、日本人の「心の素」に迫ることであるとか、そんな問題提起がこの本の面白さの一つです。
答えは、本書の中にありません。そもそもそんな疑問に対峙すべきなのは、歴史学なのか日本語学なのか、民俗学なのか。「面白いテーマって、しばしば学際にあるんだよなー、だから一生かけて研究しようっていう専門家がいない」
...なんて思っていたら、飲み会の時間が迫ってきたのでした。それぞれの仕事の愚痴から、いやはや盛り上がって飲みすぎました^^;。引退した身のわたしは、聞き役&てきとーな放言なんですけど。
日本語がどうとかいう頭の中の興味より、リアルの楽しさがまさって終わるのは健全な証なのかな?。と、また「?」が生まれ。言い換えるなら、幸福とは、観念の世界の達成感なのか、目の前の焼肉なのか。う〜ん