歴史小説の主人公は概ね、名を知られた武将たちです。戦国大名や軍師たち、幕末から維新にかけてであれば近代への扉を開いた志士たち。ところが「潮音」(宮本輝、全4巻、文藝春秋)は、越中富山の一人の薬売りが主役です。
幕末に生まれた薬売りが、老いて自らの生涯をふり返る物語です。時代に翻弄された庶民の目に映る動乱と明治維新。うねる歴史と市井の人びとの暮らしが等身大に描き出されて、大河のように流れます。10年にわたって「文学界」に連載された大長編。
それにしてもなぜ、江戸でも京でも、薩摩でも長州でもない、越中富山の薬売りなのか。
ペリーの黒船来航の少し前まで、九州の端に位置する薩摩は巨額の赤字に悩む貧乏藩でした。関ヶ原では石田三成の西軍に加わった外様大名。幕府からも警戒、冷遇されてきた貧乏藩が、幕末に至って突如、領内に西洋技術を導入した製鉄所を建設し、強力な軍事力を整備して討幕の主役に躍り出ました。
財力がなければ、とうていできないことです。薩摩藩がやったのは、強引というか滅茶苦茶というか、武士の威を借りた商人への一方的な借金帳消し措置。でもこれはマイナスをゼロにしただけで、プラスを生むことはありません。
鎖国の中で、密貿易ルートを作り上げて財を得たのです。密貿易が、明治維新という歴史の大転換を成し遂げる背景にあった。
広大な中国(当時は清)は昔から、内陸部にヨウ素不足による深刻な風土病がありました。その特効薬は、ヨウ素を豊富に含む昆布です。北の海で獲れる昆布は、高価な「医薬品」でした。
北海道(松前藩)から安く昆布を買い付けて、琉球経由で清に輸出すれば莫大な利益が上がります。薩摩はそこに目をつけた。日本は鎖国しているので、幕府に知られてはならない密貿易です。
最初からそんな構想があったわけではないでしょう。仮に構想しても、実現はほぼ不可能です。しかし薩摩には条件が揃っていた。越中富山の薬売りです。
外から入る人を厳しく制限していた薩摩で売薬を行うため、越中の薬売り組織は、薩摩藩に昆布などの献上品を届けていました。だから薩摩藩は、昆布の価値を知ることができたと思われます。
一方で、昆布と引き換えに、中国から大量の漢方薬の原料が得られるなら、越中の薬売りたちにとって命綱になります。富山藩の人びとの生活を支えていたのは、北海道から薩摩まで、全国津々浦々に張り巡らせた陸における薬売りの販売網。販売網からは各地のさまざまな情報がもたらされ、薬売り組織に集約されていました。
こうして秘密裡に、「ウイン・ウイン」のつながりが薩摩と越中の間で成立しました。北海道から薩摩へ昆布を運んだのは、北前船で日本海の海運を担っていた越中富山の廻船問屋でした。
「北海道ー越中ー薩摩ー琉球ー中国」という、密貿易ルートが構築されたのです。
専門家に協力を求め、作品は歴史考証を経ていて、密貿易をはじめとした事実の骨格はほぼ正確です。この密貿易は極秘事項なので残された史料がきわめて少なく、あっても意図的に符牒だらけにして、解読を難しくしてあります。
主人公として、昔話を語る彼は、薩摩組(薬売りの担当組織)の行商で薩摩に入って以降、人生の大半を富山と京、大阪の往復に費やしました。時代がどう変わるかを見極めることが、密貿易に支えられた売薬事業の未来を左右し、貧しい小藩に生きる人びとの命運を決するからです。
彼と仲間たちは寺田屋事件、禁門の変などさまざまな事変に関わり、人間として思い悩み、日本という国について考えます。
西郷隆盛はじめ、維新の多くの立役者たちが、語り手である一人の市井の人間にどう映っていたのか。彼が語るのは、実は作者・宮本さんの人間観であり歴史解釈でもあると思います。
明治維新とは何だったのでしょう。
ヒーローではなく、だれにも知られることのなかった人の目を通して、見直してみませんか。