ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

鉛筆を削る

 5月の大型連休明けに、鉛筆10数本をカッターナイフで削りました。熱いコーヒーを横に置き、削り始めると、いつの間にか鉛筆の先に神経を集中して周囲が見えなくなります。

 10Bや4Bといった濃い鉛筆は減りが早く、使用頻度の割にずいぶん短くなっています。9H、4Hなどは減りが遅く、しかし芯が硬いのでこちらは削るのに時間がかかります。

 鉛筆はデッサンに使うため、わたしの場合は濃さを問わず極細の線をきれいにひけることが絶対条件。数本仕上げてひと息つき、コーヒーのことを思い出したころ、既にすっかり冷めていました。一気飲みしてから、すべて削り終わるまで2時間近く。

 わたしは鉛筆を削る時間が、嫌いではありません。その間は雑念が消え、気分転換にもってこいだから。昭和の時代に生まれ育った自分の、ささやかな心の贅沢...とさえ思っています。

 そもそも今、文字は書くものでなく、PCやスマホで入力する時代。鉛筆をナイフで削る人なんて滅多にいないでしょう。

 昭和3、40年代、小学生はみんな鉛筆を削りました。ごりごり鉛筆削り機を回して。余裕のある家なら電動式削り機を買ってもらえた。でも高学年になると、田舎の男子はあえて小刀で削るのがちょっとカッコよくもありました。

 いまさらわたしが鉛筆を削ったのは、サクラを描こうと思ったからです。事前に白の下地を塗った木製パネルは準備してありました。その上に、練習デッサンではなく、「鉛筆画」として描き込むつもりでした。

 わたしが暮らす地は今年の春、桜の満開時期に、強風を伴った大荒れの1日がありました。翌朝、庭に出たわたしは、花をつけたままの枝先が落ちているのを見つけ、拾って台所の小さな空き瓶にさしました。

 見ているうちに、ふと描きたくなったのです。初めから描くつもりなら、もっと気の利いた瓶を使ったのですが、なんと炊き立てご飯の親友・海苔の佃煮の空き瓶。でも、あるがまま、あったままがいいか。

 ありふれた日常を切り取って、心を託すのが写実だと思っているから。そして日本人にとってサクラは、「栄華」と「滅び」の正反対のイメージを、暗喩として一つの身にまとう稀有な花なので、やはり惹かれます。

 願わくは 花の下にて 春死なん...(西行)

 西行の歌とはほど遠いわが台所のサクラは、もちろんとっくに散ったので、写真を見ながら毎晩、焼酎ロックを飲んで描き進めています。思い通りの線が引けなかったり、濃淡が出せないたびに、悔しくてぐびりと一口飲(や)ってしまうから、調子がでない夜ほど酔います。やれやれ。

 こうなると絵は、主役でなく酒の肴のような。まあ、醉筆もわたしの生活の写実?(現実、もしくは実態)なんですけど。

 モチーフの周囲は紙とテープでマスキングし、白の下地を汚さないようにしています。鉛筆段階が終わるまで、もう一度は鉛筆を削ることになると思います。

 鉛筆画としての区切りがついたら、できる限り鉛筆のタッチを生かしたまま、色をのせるつもり。着色は油彩がいいか、水彩か、いっそ両方の絵の具の特性を使い分けた混合技法か...などと、いろいろシミュレーションして迷っています。

 完成は夏かなあ。絵のタイトルだけはもう決まっていて、「春の譜」。

 

 昨年5月、風景画の大作に取りかかったことをブログに書きました。完成までまだ2年はかかりそうです。そちらも、折りを見ていつか中間報告させていただきます。