ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

かけがえのない日々 〜「火山のふもとで」松家仁之

 松家仁之(まついえ・まさし)という作家を知ったのは、本猿 (id:honzaru)さんのブログを通してでした。書かれていたのは、松家さんのデビュー作である「火山のふもとで」(新潮文庫、読売文学賞受賞作)についての、最高級の賛辞を含んだレビューでした。

 「これは読んでみたくなりました」とわたしがブログにコメントを残すと、本猿さんから「是非」と勧められたのです。翌日、行きつけの書店に行ったけれど見当たらず、別の書店に足を延ばしても、店頭にありません。

 できるだけ本屋さんで買いたかったけれど仕方ないか...と、帰宅後にAmazonで検索。ところが品切れでした。古本を探すと単行本が何冊も見つかりますが、定価のほぼ倍近い値段ばかりです。わたしは、思いました。

 おそらく、増刷中で供給が間に合わなかったのだろう。しばらく待てばまた文庫が店頭に現れるはず。大ベストセラーという評判は聞かないから、平積みはなくても、新潮文庫のコーナーにまた再登場するはずだ...。

 今年2月のことでした。ところがわたしは、やがて「火山のふもとで」という小説のことをすっかり忘れてしまったのです。

 言い訳をすれば、机上にはすでに順番を待つ積読本の山があり、そのくせ昔気に入った本を引っ張り出して再読したりで、明らかに供給過剰。加えて近年、わたしの興味は読書より絵を描くことに移っていて、本に費やす時間が著しく減っています。

 5月の連休明け、いつものようにキャンバスを前に筆先に集中して疲れ、大きく一息入れて、読書用の休憩いすに腰掛けました。30年前に作品社から刊行された50冊の「日本の名随筆」シリーズの中の1冊を開きました。明治から昭和までの大家たちの短い随筆は、気分転換にうってつけなのです。

 そのときふと、なぜか思い出したのです。待っていた本のこと。そういえば...

 

 「火山のふもとで」は、出会えたことに感謝する小説でした。いい作品は、その本が手元にやってきた過程を含めて記憶に残ります。だから、長々とここまで書いたのは、この本に対するわたしなりの賛辞なのです。そして本猿さんに感謝しなければ。

 大学の建築学科を卒業した「ぼく」が入所した設計事務所は、夏の間、浅間山の麓にある避暑地へ仕事場を移します。そこでは国立現代図書館建設のコンペに向けて、提案作成の真っ最中。コンセプトの練り上げから、書架の形状と本の後ろに積もる埃の関係まで考える、膨大な設計プロジェクトです。

 建築設計とは、こんなにも奥深いものなのかと感嘆しました。そして「ぼく」の目を通して描かれる避暑地の自然の、朝夕の色彩と明暗、鳥たちの囀り。「ぼく」を取り巻く人びとの生きてきた歴史と、交わされる言葉。やがて、始まるひと夏の恋...。

 日常を何気なく描いて読者を引き込むのは、スリリングなストーリー展開を主軸にするより、はるかに難しいと思います。当たり前だからこそ、かけがえのない日々。

 松家さんの文章は細やかに事象のひだを掬い上げ、美しく繊細に深まっていきます。わたしたちは安心して小説の言葉に身を任せればいい。

 作品を女性に例えるなら、華やかな美人ではなく、清楚なただずまいをかみしめたくなる佳人。「小説」というより、「文学」の香りなのかな。それが「火山のふもとで」でした。

               

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